(art)雨の晩のMA
モダンアートについて徒然と書きたくなってしまいました。
Marina Abramovićという芸術家がいます。
彼女については読んで学ばないでください。映像を通して彼女の作品を見てください。You tubeにたくさんありますが、刺激が強いというので、若い人には適しませんし、年齢制限もあるようです。
彼女の芸術は人に魅入る芸術です。「人間って何?」「私って何?」そして答えを探して耳をふさぎたくなるような悲痛な声で叫んでいる。。。若い頃の彼女の芸術は、そういう芸術だと思います。
決して答えのない問いを、がむしゃらに足掻きながら探す芸術家の姿を晒しているアーティストで、衝撃的で危険という人もいるけれど、その姿に共感する人は多いのです。
文字通り自分を犠牲にしながら他者に、芸術に、鋭い視線を注いでいる若い女性が、穏やかなまなざしで笑みを浮かべて語る今の彼女になるまでの、作品をすべて知っているわけではありません。初めて見たのはYou Tubeで、作品Rhythm 10でした。
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モダンアートでは「死」をテーマにしたものが時折あります。
作品は、私の経験内ですが、「赤」をベースにしたものか「黒」(あるいは暗い青)をベースにしたものに分かれているように思います。
「赤」の死は、生きている肉体の死。もしくは命が失われていく様。生物としての死
「黒」の死は、心の死。闇に消えるもの。命とともに失われる精神の死。人としての死
そういうものを描いている印象を持っています。
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「そんなところには行きたくないわ」
昔、私は言いました。24歳の頃でした。一年くらい過ごしていたキリスト教の寮で、18歳くらいの若いお嬢さんが、英語の勉強を兼ねてBible studyをやりましょう、と毎週1時間付き合ってくださっていた頃のことです。
彼女は天国とはどういうところか教えてくれるくだりで言いました。
「ダイアモンドの門があって、金銀に輝く…」
そして、素晴らしいところでしょう、といった彼女に私は困った顔で言いました。「そんなところ行きたくない。」
24歳の私はそんな無機質なところには真実行きたくありませんでした。樹々から漏れる光の下で、土や草の薫がする空気を胸いっぱいに吸い込めるような場所に行きたい、といった記憶があります。
一方で、宇治の平等院鳳凰堂ミュージアムでは、人が死ぬときに迎えに来てくださるお釈迦様のことをこのように語ります。
「貴方がその時に一番会いたい人に姿を変えて、お釈迦様が貴方の魂を迎えに来ます」
それはついて行ってしまいますねぇ…。
でも仏教の天国は、極楽浄土と今生以外は、5つの地獄です。極楽浄土には平衡的な世界だそうです。私は極楽浄土に行けるような人ではなく、地獄を人並みに恐れますので、後ろ向き思想で失礼ですが、出来れば転生が理想的。。。次の生は植物がいいですが、微生物や虫もいいな、と思います。
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「今日は死ぬのにもってこいの日」(ナンシーウッド 著)
という本があります。
ネイティブアメリカンの言葉をまとめた本です。
この本を読む前、悔いなく生きていればいつ死んでも大丈夫、というようなことが書かれているのかと思っていました。でも違うんです。この本には、目に映る季節の移ろい、家族との笑い、つらかった日々が過去になったこと、そうやって生きてきていることが静かに優しく書いてあります。
今日は死ぬのにもってこいの日だ
生きているものすべてが、私と呼吸を合わせている
すべての声が、私の中で合唱している
ー中略ー
私の畑は、もう耕されることはない
私の家は、笑い声に満ちている
子供たちは、うちに帰ってきた
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ
迫害された人々の、光に満ちた生、そして死です。
京都文化博物館で「今日は死ぬのにちょうどよい日」という真っ赤な漆の箱の作品がありました。力いっぱい生きた後の死を祝うものか、動物としての死を現したものなのか、今の私には判別できませんでしたが、良く似たタイトルですが発想は違う気がしました。
養老孟子氏の著書に「唯脳論」という本があります。生きている間私たちが見るものは、みな脳神経が映し出すもの。。。
一方で、書いてあることは違うのですけどよく似た気持ちになる本に「寡黙なる巨人」(多田富雄 著)があります。死を隣り合わせに感じる彼の、生きることはどういうことか、人間の社会はどういうものか、ということへ注がれたまなざし。この人のように生きたい、と思いました。
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今の私にとって死というのは、生きていた間に大事にしてきたすべてのものを置いて、旅立っていくことです。
大事なものが多いと旅立ちは辛いのではないかしら、脳が映すだけの世界の意味はどこまであるのかしら、一人でちゃんと旅立てるだけの自分にならなければ、と思うと、これまでの自分や今の自分の生き方に、どうしても涙がにじんでしまいます。
年を重ねて穏やかにほほ笑む、若い頃をあのように激しく生きたMarina Abramović(マリーナ・アブラモヴィッチ)嬢を尊敬するのは、激しく真摯に「生」に向き合ってきている方だからだと思います。
実際の彼女のことは知りませんが、もし若い彼女と出会うことができたら、食事して、安らかに眠って、ハーブを摘んで、穏やかに笑って、時々彼女抱きしめてあげるような、そういう時間をあげたいと、思ったかもしれません。
でも私は彼女が本当に愛を望んだ人ではなく、彼女を癒すことはできず、それは自己満足になる大きな危険を伴う行為でもある気がします。
私ごときがおこがましいでしょう。それでも抱きしめたい。それを拒絶されても、優しさで許してくれても、そのことによってたぶん私が救われると思うから。。。