新茶を作る

立春から八十八夜に摘まれたお茶は、不老長寿の縁起物と言われます。

これは地域によって少しずつ違うのか、八十八夜の内に(八十八夜以内の早い時期に)摘まれたお茶の全部に同じ効力があるというのも聞いたことがあります。(お土産物屋さんの戦略かもしれません。)

この話を初めて知ったのは川端康成氏のエッセイ。有名な「美しい日本の私」という本です。

深々とした美しい描写で話を書かれる方ですが、エッセイには一人の人間としての迷いや柔らかさの中に一本の力強さを感じます。私が読んだ、「美しい日本の私」という本は、その題名のエッセイの中に、川端康成のエッセイがいくつか入っていて、戦争が描かれ、戦争を日常として続く生活のなかの近所づきあいが描かれ、現代も描かれ、ノーベル賞受賞の気持ちが描かれ、受賞後の気持ちが描かれ、「美しい日本の私」というタイトルから、「美しい」のは国ではなく、私なんだと、そしてそれは氏がというわけでも、日本人が、というわけではなく、毎日を懸命に丁寧に生きる「私」たち自身そのもののことなんだと、感じた本でした。

戦争に振り回された日常を生きた彼を取り巻く毎日の中にあった愛しいものたちのことを、美しい、と言っていたのか、と。

川端康成氏は、その本の中で、八十八夜以内の早い時期に摘まれたお茶に不老長寿の効力がある、と書かれていたように思います。

それ以来、新茶と八十八夜という言葉を聞くと何となく反応してしまうようになりました。普通に考えて、時期的に一番茶であれば八十八夜以内に摘まれていることになるでしょうから、不老長寿の効力があるお茶は、現代は割と流通していることになると思ってしまって。。。若いころは老いた両親に、最近は私自身にも求めたく思ってしまう季節ものの一つです。

さて、前置きが長くなりましたが、昔からある古い小山に私の父が植えた茶の木が数本あります。今年はそれを摘んで、自分で新茶を作ってみました。

何でも分かって、インターネットって便利ですね。(もちろん、事前に本も読んでどんな手順か、揉み方かなども確認したんですよ。)

せっかくブログを再開しましたので、記録を残しておきたく思います。

まずは茶摘みから。とはいっても、無理のない量にしようと少量を本当に摘んだだけです。

私は渋みあるお茶が好きなので、第3葉までを摘みました。

摘んだらともかく急いで蒸さないと、酵素分解が始まって、お茶のおいしさが失われる、と聞いていたので、家に帰ってすぐに蒸し器を用意してお湯を沸かしました。熱量に対して蒸し器の使用は1分半、一人分ならレンジで蒸してもよかったかしらと思いつつ、それからはじっくりフランパンの上で転がしました。

茶葉を転がす際に、温度は37度を超えてはいけないそうです。

人肌くらいなので、フライパンの火を切ったり入れたり、常に自分に熱くない温度に保ちながら、昔テレビで見た景色を思い起こしながら茶葉をもんでいきました。

フランパンでやる場合のポイントは、すぐに焦げる温度になることで、やっぱり大事なのは温度管理です。なので、結局休みなく継続して茶葉をもみことになります。

でも不思議。すると、なぜかどんどん茶葉が柔らかくなって、それからペタペタしてくるんです。揉むことで、葉の表面に何が滲出されているんでしょう。

煎茶って、お湯を注ぐと広がりますよね?茶葉がペタペタしてきたら、あの見慣れた形にくるくるねじっていきます。くるくるしても数回では手を離せばすぐ開いてしまうんですが、つまりその時点では揉み方が足りないと心得ます。

掌の上で、クルクルねじりを何度もやっていると、そのうち茶葉はねじられた形のまま固定されるようになります。世間の煎茶は割とブロークンで、急須に入れてお湯を注いで茶葉が開いても、すごく大きいということないですが、私は茶葉を砕く過程というのがわからず(揉んでいるうち自然に砕かれていくというイメージかもしれません、本にも書いてありませんでした)すべて手作業で、一枚一枚をねじっていくことになりました。

時間がかかりました。でも、無事に一枚をねじった細長い煎茶が出来上がりました。

大変な達成感。

兎年の新茶です。

お湯を注いだら、茶葉が躍るように一枚サイズに戻ったのも新鮮でした。

色もきれいな新緑色で、すっかり嬉しくなりました。

葉を丸めた自分がびっくりするような、淹れるのが楽しい、そんな新茶ができました。

味もびっくり、甘くて渋くて美味しかったです!

急須5回分くらいの量で3時間かかりましたけれど、たまにはいいものです。縁起ものですしね。

2回分は大好きな老人夫婦にもお裾分け。お互い長生きしましょうね。大変ながらも良い茶葉づくりになりました。

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