たくましいのは…
今晩、買い物してとことこ歩いていたら、いつも通る道からひょこっと、金黒の猫さんが出てきました。にゃーにゃーいっては、足に体を据りつけます。
可愛い子アピールご飯頂戴!
ですよね、これは。
もうスリスリ、スリスリと、踏みそうに何度なったことか。
買い物帰りだったけど、動物性たんぱくは持っていなかったのです。
でも、あまり長いこと付いてくるので、商店街まで一緒に来たら、唐揚げ屋さんで唐揚げを買ってあげるね、といいながら、猫を踏まないように気を付けて、猫をよけつつフラフラと歩いていました。けれど、途中でお寺を通りかかったときに、何かを見つけたみたいに、お地蔵さんの横を抜けて行っていなくなってしまいました。
行ってしまった…
あの子は人に飼われていたのでしょうか。
あの子みたいな猫に、これまでも何度か出会ったことがあります。
こういう子は、良く鳴くんです。
子供が泣いて、親を呼ぶみたいに…。
実家は犬を飼っていましたけれど、それをものともせず裏口で頑張った子猫ちゃんもいました。
この子猫ちゃんは明らかに飼われたことはないサイズだったので、経験的にそうやって鳴きながら頑張れば、餌をもらえていたのだと思います。
集合住宅の制約と、老い先短い命のことを考えると、思い切りはつかないものの、私も今は自分で生き物を飼うか飼わないか決めることができる年になりましたが、子供の頃は捨て猫を拾って帰っては、こっぴどく叱られたものでした。
子供の頃はひどく理不尽に思ったものです。
鳥も犬も飼っていた我が家でなぜ猫だけが駄目だったのか、この年になってもわかりませんけど、私が拾ってきた猫を父に捨てさせてしまったこと、父だって辛かったろうと、思えるようになったのはいつ頃でしょうか。(こういう時は、母の方が説得されてくれるのです。しかし帰宅した父が怒って捨てに行く、というのがお決まりのパターンでした。)
父だって辛かったろうと、思えるようになって、ちゃんと、だいぶん経ちますよ。
でも、こういう野良猫たちに出会うと、都会と野良猫には、切っても切れない縁が少なからずあって、そしてそれが、私たち人間の責任であることを強く感じずにはいられません。
子猫はひどいときは何匹も紙袋に入れられて、捨てられていたりして、連れ帰れないことを学習したあとは(小学校までは連れ帰っており、学習は中学生のいつ頃か、ともかくだいぶん遅かったですけども)、ミルクや煮干しをこっそり運んだものです。でも雨が降ると死んでしまうんです。寒くて凍えて固くなってしまった小さな体。小さな命たち。
野良猫にえさを上げてはいけない、と皆言いますけど、飼ってあげられないそのことが、すでに悲しく、結局商店街で唐揚げを買って、お寺の前のお地蔵様のところまで戻ってみました。
でももう猫は現れませんでした。
それで家に帰って、その唐揚げを自分で食べました。
良く考えたら、お地蔵様にお供えすればよかったですね。お地蔵様があの子に挙げてくれたでしょうに…。
胸も重く、お腹も重い、今晩なのでした。
唐揚げだって鳥さんの命なのに、そんな風に思って、ごめんなさい。
猫さんとは、出会った時には何も持っていないことが多く、出会った後に、急いで煮干しなどを入手してリュックに入れて何か月か生活したりするんですけど、そうすると会わなくなって…、ということを繰返している気がします。
都会の猫たちが、物語みたいに集って、人間を馬鹿にしたり、人間に焦がれたりしながら幸せに暮らしていること
あの子は私が、そういうことを祈ることを、許してくれるかしら。許してくれたらどんなにいいでしょうか。
貴方たちがたくましい命であることを祈って、今晩のお話には、このタイトルをつけましょう…。