(雑文)デジタルデータ
絵画は創造であり、写真は発見である
と写真家のSaul Leiterは言ったそうです。
これは真理、と感心しきりで、芸術家の言葉の中では、かなり気に入った言葉なのですけれど、私のような者にとっては、写真は発見や記録、といった以上の意味を持つこともしばしばです。
昔、写真は高価なだけでなく面倒でした。私自身で現像したことは数えるほどしかないですが、暗室も現像液も、現像のための段階の一つ一つに知識と技術が必要で、何もかもが特別でした。フィルムデータは映写機で視たものですけれど、だから部屋を暗くして、家族に声をかけて、写真を視るときはだいたい一家総出でになったものです。映写用のフィルムカセットは場所も取りましたが、皆で集って映像を家の壁に映していくのは、楽しく心躍る時間であり、その時間そのものが大切な思い出でもあります。
そうはいっても、骨折りが大きい割に結果が伴わないことも多かったので、カメラ技術の進化は春の訪れと同じように心を明るくしました。
デジタルデータがこの世に登場したときは、どれほど感心したことでしょう。
若い方からデジタルデータがあれば写真の現像は必要ないですよ、と言われて、そういうものか、と思っていた時分があったのですけど、この年になってよくわかりました。
答えはノー
デジタルデータで写真が保存できるようになって15年、20年くらいでしょうか。
現像したフィルム写真は古びたアルバムに残っているけど、あったはずのデジタルデータは、ファイルが壊れていたり、読み込みできなくなっていたり、どこかに消えていたり…。
場所を取ってかさばっても、大事なものは、異次元空間に保存しないで、ちゃんと3次元にした方がいいのだと、しみじみ思う今日この頃なのでした。
デジタルデータも全部きちんと管理していたはずなのに、どこに行っていってしまったのかしら。ここで嘆くようなことでもないのですけれど、探し物が見つからない(しかもたくさん)ことが、心寂しく、ちょっとだけ嘆かずにはいられないのです。
いつでも現像できるなんて思わなければよかったです。皆さんも気を付けられてくださいね…。
だって
鮮やかな思い出あるほど、すべてが私の夢であったよう
心の中に、とても活き活き生きている風景だけれど、偲ぶよすがを失っているのは寂しいものです
思い出は覚えていることが何より大事かもしれないけれど、記憶は変わっていくものだから
記憶は掴めぬ春の夢のようだから
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京都市内の桜は満開
春の嵐は予報より優しく、花は明日も咲いているでしょう
風とお日様に包まれている姿はもちろん、雨に打たれても美しい春の花
桜はまるで、まどろむ春の夢のようです