やまなし
宮沢賢治のお話に「やまなし」という話があります。
小学校の教科書で出会った人がほとんどではないかしら。
不思議な話だと思います。大人になって読み返しても果たして何を伝えたいのかはよくわからない、けれど、小学生の時に出会って以来ずっと心のどこかに居座る不思議な景色、そっと寄り添っている気がする静かな話。
挿絵を覚えていないけれど、優しい挿絵があったように思います。水底から水面を見上げて、ぷくぷく浮かぶ水泡が揺蕩うひどく幻想的で優しいイメージがあるのです。今でも覚えています。学校から帰ってランドセルを下ろす前に母に向かって「やまなしってどんな梨?」と聞いたことを。
ハイカラな母だったので、どうやら知らなかったのでしょう。当時ひどく貴重だった洋ナシのようなものよ、と教えられて、ずっとそうだと思っていました。洋ナシは船の形でぷかぷか水面にあったのかな、と。貴重で特別な梨だったので、母の回答は優しく私の胸に届いたこと、洋ナシの味も香りも大好きだったので、めったに食べることのなかった特別なごちそうだったその梨がクラムボンたちのところにあることを、ひどく嬉しく思ったものです。
ところが、この間滋賀県の湖西地方をぶらぶらしていた時に、道の駅でホンモノのやまなしに出会ってしまったのです!
大事件でした。可笑しいでしょうか。そのことが大事件として、胸に響いたことに、自分はちょっと笑ってしまいました。
それは間違うことなく日本の古来種。スーパーなどでは見ない、姫リンゴの双子のような、小さなまあるい梨。いろいろな種類があるそうですが、出会ったやまなしは、宮沢賢治のやまなしのお話のイメージに合った通り。これは確かにぷかぷか浮きそう!
当時日本ではそもそもほとんど見ることのなかった洋ナシの訳がなかった、これこそがやまなしだ、と大変すっきりしました。(立ちすくむ私は変なおばあさんだったことでしょう)なんという発見。
真にふさわしいものに出会うと、両手で足りる年の頃からいただいていたイメージも、さわやかに香り立つように簡単に塗り替えられるものなのですね。お山の小川にぷかぷか浮くやまなしは、これ以外にはありえません。なんて素敵な出会いでしょう。
もちろん購入です。このようなものを見つけて味を確かめないわけにはいきません。
日本の古来種のやまなしは、子供こぶし程度の大きさで、食べるところはほとんどなくて、石細胞がいっぱいで、やや渋いくせに大変甘かったです。そう、子供の頃の私だったら、きっと野山で見つけたら、歓声を上げて、もいでむしゃむしゃ食べたことでしょう。大人になってお金を出して買うような立派な梨ではない気がしましたが(買いましたが、ともかく食べる部分もほとんどなければ、そこまでおいしいものではないので)、私の中にいた小さな私が、瞳をキラキラさせて喜んで食べていることがはっきりわかる、そういうなしでした。
クラムボンは笑ったよ。
私もきっと一緒に笑った。
そんな気持ちになったやまなしは、すっかり世慣れてしまった私には生で全部食べるのは美味しくはないので素直に難しく、お砂糖とショウガでコトコト、韓国古代デザートのレシピに従い、梨のコンポートにして美味しくいただきました。韓国茶があればなおよかったけれど、京番茶にもピッタリでした。
久しぶりに、自分の中の子供が姿を見せて、食べたいたべたいと声を上げた食べ物でした。
大満足でした。