汚染水の海洋排出
今、海に流れ込む河口の近くに暮らしています。
海水と淡水が混じり場所だからでしょうか。川なのに潮干狩りをする人がいたり、エイのような魚やスズキのような魚やフナのような魚やトビウオみたいな魚やフグみたいな魚や、群れを成して泳ぐ小魚や悠々と泳ぐ大きな魚が、遊歩道を歩く私を楽しませてくれる川です。
魚を狙って、サギやカモメ、カイツブリや鵜などもいます。
晴れた日はキラキラと輝き、雨の日は海の波を感じさせる水面がダイナミックに揺れています。
今日は水面に泡がいっぱいあって「お水が汚いのかな」と思いましたが、泳ぐ小さな小魚たちが、水面に口を開けて顔出して、何やらパクパクしている様子を見て、「あぁ、餌があるのか」と浅慮なヒトなんかには思いも及ばない生態系について思いを馳せて帰ってきました。
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いつごろだったでしょうか。
寒々とした広い土地に、次々と並んだタンク、その圧倒的な数を撮った写真を見た時の気持ちを覚えています。
福島の復興は、このタンクをどうにかできるようにならない限り、決してないのだと、町が復興し、農業、魚業への取り組みが再開し、東北大震災を語る日がだいぶんたったある日の事でした。
そのタンクの水が、2023年8月24日、海洋に排出され始めました。
震災から10年、多くの有識者と研究者が解決策を模索続けていたことであろうとは思います。あの圧倒的な無機質な嘘みたいな、お墓みたいな水のタンク。
それでも中国の反応は自然だと思うし、日本政府にはもっと死ぬ気で解決策を模索してほしかった、と思う気持ちを消すことはできません。
もちろん、IAEAも日本の有識者もきちんと確認しているでしょう。でもこういう時、世間がお金と政治力で、異論を封じることを我々はみんな知っています。
海はつながっている。
これもすべての人が知っています。
排出を決めた人だって知っているでしょう。子や孫もいるでしょう。だから、不安を感じている関係者の中には、「正しい決断だ、大丈夫だ」と言い聞かせている人もいるのかもしれないし、本当に大丈夫なのかもしれない。
けれど、排出前の最後の議論がトリチウムの他国の排出量との比較だったことが残念でなりません。
他国の原発からトリチウムが排出されているのと同じくらいの放射線量だからよい、という論調があったことが残念でなりません。
そうであるなら、汚染トリチウムの排出によって、その国の周辺の生態系がどの程度の影響を受けたか、確認することができたはず。
そのためにもう数年待っても良かったはず。
原発を有する国の政府が、国民の非難を免れるためにそのデータを一切取っていなくても、現状を調べることくらいはできたはず。
その課題が明らかになったことで、それに取り組もうと思った人は絶対いるはず。70億人の人がいるのだから。
論点の変化がまるで手品を見ていたようでした。
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温暖化でウイルス病がはやり始めている海、マイクロプラスチックや化学物質、発泡剤で生き物が死んでいっている海。地上の汚染物はすべて海に流れています。
地球は長い長い時をかけて、生態系のバランスを平衡状態に持っていくでしょう。
気の遠くなるような時間をかけて浄化作用もはたらくでしょう。
ともかくとても時間がかかるのです。
人の活動はすでに速すぎ、人とともに栄えた生物とともに、今ヒト自身が滅びの時を毎年カウントダウンしている。何かの悪い冗談みたい状況です。
ここにさらに負荷がかかることについて、どうしようもなくても、少なくとも、もう少しだけでも、影響についてデータや見識を積んでからでも遅くなかったのではないのか。あるいは、数年後に今とその時を比較して、排出を続けるべきか判断すべきだったのではないのか。
生態系に関する公表されたデータがないのは不自然です。実験室レベルで(誰も試してないでしょうけど)汚染水を毎日2リットル飲めるという放射線濃度測量データなどではなく、生態系にはヒトより小さな、生命の循環に重要な生物がたくさんいます。
何故データはないのか、そのことについて、考えます。
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すべての命を産んだ海。
その命たちに生かされて、私は今日も生きている。
人は血と涙と痛みで生まれ変わるのだと思っているのですが、自然は風と水と土が長い長い時間をかけて少しずつよみがえらせます。
それはイエスの復活みたいな話とは思いませんか。それは不老不死のような話だとは思いませんか。それは神話よりも尊い営みだと思いませんか。
人はこんなに身近に素晴らしいものがあるのに、それがゆっくり起きているというだけで、それを見ない。
AIよりもずっと学ぶものがあるのに。
他の命の事を考えなさい、とかそういう話ではなく、アリのために死ぬアリクイはいないし、微生物も虫も自分の生をただただ一生懸命生きており、人が他の生命体のことを考えるのは純粋に彼らがいないと自分たちが滅ぶという、自分の生を生きる過程の一つに過ぎないのですし、でも、だからそういう話ではなく、、、我々は速すぎる。そして次々に起こる出来事の中で、自分の国で起きたこのことを、私は今考えています。
我々は速すぎて、、、速すぎて、、、どこへ行くか分かっているのに決してスピードを緩めない。
私たちが当てにしているものは、とてもとてもゆっくりなのに。
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悲しい時も疲れた時も、道すがら、川にたくさんの魚がいるのを見るのはふっと心浮き立つものです。
ぽちゃんと跳ねた小さな魚に身勝手なつぶやきが落ちました。
「ごめんね」