(お話)ミカンとひよこ
森は夏の気配に満ちている。花の香、土の匂い、葉のささめき。
日差しは強く気温は高いが、木陰にいれば暑くはない。踏み固められた道を、町に向かって下っていたが、途中、小さな倒木があって、その上に夏ミカンの木があった。座るのにちょうどよかったので、旅人は休憩を入れることにした。
夏ミカンをもぐとかんきつのかぐわしい香りがさっと空気を震わせた。
「こんにちは。それはおいしそうですね。隣に座って僕もいただいてよいでしょうか」
声をかけられて顔を上げたら、明るい瞳の青年が旅人が向かっている下りの道から山に上がってきているところだった。
「もちろんです。山の恵ですね」
旅人はそっと横に詰めて青年に場所を開けた。
青年も夏ミカンをもぐと、倒木に腰かけた。旅人から少し距離を置いて、でも遠すぎない感じのところにそっと座った。
「ずいぶん長く旅をしている様子ですね。どちらへ」みかんの皮をむきながら、青年は快活に聞いた。
「町の方へ。あなたは?」
「家に帰るところなのです」
少し言葉を交わしあい、しばし無言でみかんを食べる。苦くて酸っぱいが、長く歩いてきたので、元気が出るような気がする。
若者も同じだったのだろう。二人は少し話をした。
旅人は旅の途中で見たものを、若者は山向こうの里の話を。
そうしてしばらく話すうち、ふと若者は旅人に質問をした。その質問は旅人の心に長く残り、いつか故郷に帰ったら弟にも意見を聞いてみたいと思った。
長く旅をして世の中を見てきたらしいあなたの意見を聞いてみたい、そう言って若者が語ったのはこんな話でした。
「ある人が歩く道が絶壁と本人が信じるところ歩いていたんだ。手には、大きさは小さく、重くもない、けれど荷物を持っていた。かわいいヒヨコが数羽入った袋だ。本人には下は見えない断崖絶壁を歩いているように感じているけど、もしかしたら、少し細いくらいの危険なことも何もない道に見える人もいるかもしれない。そういう不思議な道だったらしいんだ。」
旅人はうなづいた。そういう道はあるだろう。
「ある時、強い風が吹いて、その人はバランスを崩した。それで袋を落としてしまったんだ。男自身はなんとか踏みとどまった。それで手ぶらで村に帰ったんだって。でも、村に帰ったらその人はひどく責められた。ヒヨコがかわいそうだ、お前はひどい奴だ、と。」
旅人はちらりと青年を見た。
そして少し考えてから言った。
「ヒヨコはかわいそうだけれど、村人は誰一人その人が落ちなかったことについて喜ばなかったの?」
「喜んだよ。良かったねって。でもヒヨコがかわいそうだって言って、落とした男に説教してたな。男は男で、足がすくんで動けなかった自分が悪いと思った。ヒヨコを助けるために一緒に落ちようとさえできなかったことを恥ずかしく思った。今回はヒヨコだったが、幼子だったら?父だったら?母だったら?そういうことを考えたらしいんだ」
男は気が付いたんだって。ひよこを救おうとしなかった自分は、例えばその時持っていたものが何であっても、救おうとできない人間なんじゃないかって。自分勝手な人間なんだって。
旅人はゆっくり考え、考えてから言った。
「私はその人は感じやすい人だと思うよ。」
そういう人は、たぶん、それはその人が、ひよこのために崖を飛び降りることができるような自分でいたい、と思っていたということなのかもしれないよ。だから、そのために命を落とせなかったことは、僕にはそう落ち度のあることには思えないよ。
「でも人だったかもしれないじゃないか」
うん、それは悲しいことだね。旅人もうなづいた。
「そいつは自分は自分のことしか考えていない、と言って嘆いてる」青年の言葉に旅人はやはりゆっくりと答えた。
「でもミカンだったかもしれないじゃないか」
旅人は言ったみた。命の重さは同じなら、ひよこが入った袋の重さもミカンが入った袋の重さも同じだ。
そう言った旅人を青年が見た。手がみかんで汚れているようだ。旅人は続けた。
生物はまず自分を守るように生まれてくるんだ。これは生きるために本能的に組み込まれてしまっていることだと思うんだ。大体の人は、そうと意識せず自分のことか考えていないと思うよ。
人のために自分を犠牲にする人は多くない。だからこそそういうは尊いといわれる。
多くで鳥の鳴き声が聞こえる。地面を歩くアリは仲間を助けて生きている。けれど時には仲間を屠って巣を守る。
「いのちの重さは同じだけれど、じぶん、そして同族同種を守ろうとするのは本能か?」
旅人はうなづいた。「私はそう思う。」
生物は生きるように生まれついていて、そして生きる中で、人は、その人が自分が持っていなかったと嘆く心をはぐくむのではないかな。他を思いやる心。
旅人が言うと、青年は小さくうなづいた。そして、先を促す。
それに、その人は他を思いやる心がなかったわけではないよね。ひよこを思って悲しんだ。生物は自分の次に同じ種、そして近縁のものを慈しむものだと思うけれど、これも生物として組み込まれたものだ。受け入れなければならない業で、これがあるから私たちは命をいただくことができる。今、私たちがこの木から、この木の子供であるみかん奪って食べているように。
青年は再びうなづいた。
「植物は尊いから」ポツンと言った、その言葉にうなづく。
「けれどその植物もなわばりを守る意識がある。他者に侵されないための武器を持つ」
その言葉に青年は目を細めた。「そう、このかんきつの香も、そうだ」
人は他のために自分をささげた人を称える。それはそれが難しいことだからだ。でも、あなたが命として生まれたからには、あなたの仲間は人類で、あなたはまずあなたが生きることを学び、愛する人を守ることを学ぶはずだ。
「私はね、命の重さが同じなら、自分は今すぐ死んでしまうべきだと思ったことがあるよ。うんと年若いころにね」旅人がそういうと、青年は目を丸くした。「なぜ死ななかった?」
旅人は笑った。
「同時に命への責任ということを教えられたからだ。今すぐ死ねば、その年までに私が生きるために食べてきたすべての命に何と言ってお詫びできるだろう。けれど生き続ければ食べねばならない。争うこともあるだろう。その時の結論は、業を得たくないならば、そもそも生まれないことでしか、それを達成できない、あるいは母の乳をで生きている間のみしか。」
青年は神妙にうなづいた。
「それはそうだ。でも生まれてしまったからには、恥ずかしくなく生きていきたい。ひよこを落とした男は恥ずかしいふるまいをしたと思ってる」
「そうかもしれないですが、自身を救ったじゃないですか。生物は、生きているから生物で、生物にできることは生きることだけだとも、思うのです…。」
青年はみかんの皮を藪に投げ捨てて、べたべたする手をズボンで拭った。
旅人がそっと水筒の水を小さく流して手をすすがせてあげようというと、小さく頭を下げて手をゆすぐ。
「まず自分を守り、次に愛するものを守るのか?」水筒の水はぬるいかもしれないが、木漏れ日を反射して美しい。
旅人は小さく首を振った。「それは、自分より大切なものに出会うまでの指標だと私は思います。命を投げ出せる大切なものを見つけた人もたくさんいます」
自分勝手に、自分本位に生きるしかない人は、そして、自分より大切なものがない人は、まだまだ生きねばならない人です。きっと何か見つけるまで。
青年がニカリと笑う。「あなたの足は片方がブリキで片方には血が通っているが、それはあなたのものではないな」
旅人は驚いた。気が付く人は多くない。
「私のために自分を犠牲にしてくれた人がいました。けれど私には、私のために義足になり不自由になったその人を見つめていることは、つらいことでした。その人の不自由のない姿を望みました」
旅人の言葉に青年はうなづいた。
「私は。。。」
旅人が口ごもりながら言った。
「私は、その彼に会えたら、ひよこと一緒にお前も崖から落ちてしまったら、お前がとてもかわいそうだ。生きて帰ってきてくれて嬉しい、といってあげたいのです。」
青年はそれを聞いて笑った。
「うん。ひよこをかわいそうだと言う人はいたけれど、落ちたら彼もかわいそうだと言った人はいなかったみたいだ。」
旅人は悲しそうに首を振った。
そしてつぶやいた。だからその人は、ひよこのために崖から飛び降りて一緒に死ねる人を尊いと思ったのですね。
「すべてを守れる人はいません。その人にとっては、自分の命が、手に持っていたひよこより大切だった、ということを、そんなにひどく責めることはないと思います。」
そういう風に考えると、いつか誰かを自分より愛したときに、間違えてしまう気がします。
「わたしには世の中のことはわかりません。でも私はひよこのためにその人が崖から落ちなくてよかったと思うし、その人が崖から落ちなかった自分を嫌い、と思っていることを悲しく思います。ひよこを悼んで供養して、代わりに別な何かに善くしてあげて、その気持ちを前向きに循環させる方が健康だと思います」そういうと、ほっと息ついて、続けた。
「ただ、その人のその気持ちも間違っているとは思いません。だけど、その人を、自分と同じくらい愛している他者がその人のそばにいればいいのに、と思います」
旅人の言葉に青年が笑った。青年はずっとニコニコしていたけれど、その笑いは、少し寂しげだった。
「そいつは自分の大切さを知っていて、自分を辱めるようなことをして生きていたいと思っていないだけかもしれない。だからひよこを落としたことがつらいんじゃないかな。やはり自分本位な奴だよ。」
旅人はうなづいた。そうかもしれない。
けれど、生物は自分だけをもって生まれてくる。哺乳動物は、特に人は、社会と文明の中で、そのことを封じた気がする。私はこれを呪いのように感じる。この呪いは自分以外の他者によってしか解かれないかもしれない。
「命は一つの命を循環している。人は知恵と知識と社会の中で、たぶんどこかで利他を知る。それは、人として生まれたからにはとても素晴らしいことで、いつか自分より大切な’命’と出会えることは、大きな幸運なんでしょうね。」
だけど、それは、社会があれば、家族であれば、それは比較的日常のどこにでもある奇跡。
二人はしばらくぼんやりと、自分たちが食べたミカンの皮を眺めていた。
やがて青年は旅人に礼儀正しく礼を言って立ち上がった。
「そろそろ日が暮れるから俺は行くよ。あなたの旅の平穏を祈る」
荷物を抱えると笑顔で付け加えた。「僕も自分より大切な人に出会いたいよ。」
あなたに足をくれた人に祝福を。
そういって軽快な足取りで山道を登り始める青年の背中を見送って、旅人は自分の手もそっとぬぐって立ち上がった。
少し泣いて、彼もまた山を下り始めた。