伏見稲荷大社 火焚祭
ふと風に誘われることがあります。
風が誘う旅路は、優しい旅路であることが多いです。
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伏見稲荷大社の火焚祭はそうして足を向けたお祭りです。毎年11月8日に行われていますが、一度しか行ったことがありません。
それは辛いとも悲しいとも苦しいともいえない、考えれば淡く消えてしまうような狂おしい夏を経た秋のことでした。
あぁ、そうだ
と急に思い立ち、伏見稲荷へ向かいました。11月8日に、火焚祭があることを、どこかで見かけて覚えていたのかもしれません。
思いたったその足で、駅まで信号で止まることもなく、駅に着いたとたんに電車が来て、空いた電車の窓からしなびた風景を見ながら向かいました。降りても迷うことなく、なんとなく人波に向かって歩いて祈祷の場所にいきついていた。そんな祭典。
伏見稲荷大社、という神社には、そういう風が吹いていることが時々あるのです。まるで誘われているかのような、まるで化かされているかのような。
火焚祭は火が付いたはじめこそ多くの煙が出ますが、その後は煙は出なくなります。天高く煙や炭に汚されることなく、灼熱の空気となって、高く高く天へ人の思いを届ける儀式です。祈祷札はこのため煙の出ない槙の木でできているそうです。
祝詞が始まると、神官様と一緒に祝詞を唱える檀家さんや伏見の人々が多くいました。冊子もなにもありません。皆自然に低い声で朗々と祝詞を唱えていました。観光客もいたのでしょうけど、誰がどうというのは、風に誘われてやってきただけの私にはわかりませんでした。
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火焚祭は、秋の収穫の後に、五穀の豊饒をはじめ万物を育てたもう稲荷大神のご神恩に感謝する祭典です。
しかしその時私は、稲荷大神にささげられた祈祷札を燃すことで、人々の願いを天に祈りを届けるお祭りと教えてもらいました。
誰が教えてくださったのか覚えていません。
そしてそれが正しいのか、わかりません。
でも、その方の言葉は私の心に強く響き、この年のこの火焚祭は、神社に願いを託した人の願いを、神官様が儀式を通して稲荷大神に届けてくれていたのだと、神官様と市政の人をつなぐ情愛の形として、胸に在り続けています。
なので、そう思っていたその時の気持ちのままお話を続けましょう。
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伏見稲荷大社のこのお祭りでは一万本以上の札を燃やして、天に祈りを届けるのです。日の本の稲荷大社の総本山、一万の願いくらいすぐに寄せられるのだろうとみていました。
その頃の私は、まだ学徒で、無鉄砲になるには分別を持ちすぎ、狂うには若すぎました。
願いは叶わぬものだと思いながら見ていたように思います。
火焚の時間は1時間強、祝詞を入れて2時間ほどです。この間に一万の札を燃やすのです。祈りを捧げる年配の神官様の横で、若い神官様たちが腕まくりをして、札を抱えて、休む間もなく、火と札の置台の間を走って行ったり来たり。
神官様のお仕事ってスポーツだ!
少し愉快な気持ちにもなりました。でも実際は愉快どころではないのだと思います。遠くから見ていた時はわかりませんでしたが、この竈は灼熱なのです。儀式の後、近くに行くことができたので行ってみましたが、まだ1mほど離れていてもすでに熱風に肌を焼かれ、とてもそれ以上近寄れませんでした。
この竈が悠々と炎を上げていた時に、両手を天に広げながら槙の札を投げ入れ、一礼し、また札を取りに引き返す、絶え間なくその行動を繰り返すこの儀式を遂行するのは、胆力がなければとてもやり遂げられますまい。ぼんやりした心で深く感心したことを覚えています。
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風に誘われて、青空にくるまれて、せっせと行き来する神官様らに巫女の舞。
願うことも、願いが叶わぬことも、それでいいかと思えるような、そんな祭典です。人は少ないわけではなく、スポーティに駆け回る神官様に灼熱の炎、決して静かなお祭りではないけれど賑々しくもない。あぁ、お狐様は優しいのだと、ただ胸にシンと感じることができる祭典です。