ヒトの分子遺伝学
「何を読んでいるんだね?」
旅先で良くこうして声をかけられていた時期がありました。
何十年も前に、良く晴れたパースというオーストラリアの南の町で出会ったイギリス人夫妻もそんな方々。良くしゃべる旦那さんと、声の出せない奥様のカップルです。
その旅のお供として、私は「ヒトの分子遺伝学」という650ページくらいの専門書を常に連れて歩いていました。旅をすることにしたものの、学友においていかれるてしまうことも恐れて、毎日7時から16時くらいまで歩き回って、晩は本を読む、そんな旅でした。
「その本は面白いかね?」
おじいさんは興味深そうに私の横に座り、私はたいして面白くもないような、でも飽きないその本について少しだけお話しするうちに、自分の身の上や、祖国の話になり、顔見知りになり、その宿での滞在がより豊かになるのでした。
イギリス人というのはそもそもなかなかに皮肉屋ということは知られていますが、そのおじいさんもシニカルに鋭い発言をする方でした。そして、声を持たない奥様に、そのことも含めていっぱい失礼な発言をするのを、奥様が声なくして丁々発止と見事にやりあい、その私には聞こえない奥様の応答を、旦那さんがこれまた過たずすべて理解して長々口喧嘩が続く。
二人は喧嘩して、文句を言いあっているのに、夫婦の強い絆をまざまざと、それは温かな驚きとともに感じさせてくれたご夫婦です。
「日本は決してアメリカとの安全保障を失ってはならないよ。君の国がいま世界の経済大国として侵略を受けずに経済的に自立していられるのはすべてアメリカのおかげだと僕は思う」(注1 彼はイギリス人でした 注2 当時日本は本当に世界の経済大国でした)
「小さな島国仲間としての助言さ。日本とイギリスには似たところがあるからね(ウィンク)」
といった彼の発言に、九州という沖縄に近いルーツを持つ私の心は複雑だったものです。私は沖縄の人たちのやり場のない憤りと悲しみと苦労について学んでおり、その言葉に同意することはできず、かといって否定するほど安全保障について考察したこともない、そんな娘でした。
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「何を読んでいるのさ」
この本は、こうして声をかけられた回数が最も多かった本です。
イタリア人に、第2次世界大戦の時に同盟を結んでいた国同士だと握手を求められたり、韓国人にこれまた第二次世界大戦時の日本軍の所業、竹島問題などの論議を挑むように吹っ掛けられたりしました。
その韓国人の男の子と出会ったとき、彼は宿で仲良くなったフィンランド人のお嬢さんの妹さんの彼氏さんでその後もしばしばご一緒することがありましたが、同じ宿にいる日本人の若者の誰もが歴史について知らず、第2次世界大戦についても竹島問題ついても、政治問題の何一つにも関心を持っていなかったことそのものについて、大変怒っていました。私は宿にいた日本人の若者たちよりやや年配で、そうした歴史について知らないわけではありませんでした。友達の妹さんの執り成しもありましたが、「知っていた」というその事実をうけて、翌晩に「失礼な態度をとってすまなかった」といってくれた若者です。
戦争を知らない世代が増える中、歴史として、あるいは問題が存在していることを「知っている」ことの重要さを教えてもらった出来事です。
200海里問題について、国内で友人と激論を交わすことはありません。政治は得体のしれない生き物のようだと思います。でも無関心であってはいけない、私の意思とは全く無関係に、今目の前にいる人と私の関係を左右するものなのです。老いた今は、政治がもっと生活に密接で重いものであることも肌で学ぶ機会がありましたが、当時の私には、それは初めての生きた学習でした。
日本の教育の場ではどんどん教えなくなっていくけれど、東南アジアでは伝えられている戦争や日本兵の所業。戦争とはそういうものだ、ということは正しくないと思います。戦争で誰もが傷つけあったのだとしても、過去に何があり、何をして何を背負っているのか、そういうことを、そういうものだから、と切り捨てることは、戦争が終わった後になお、残されたもの同志が切りつけあうことに等しいのだと、そう思うことがたくさんありました。
教師が教えれば、教わった子にとってそれは確かな真実です。彼みたいな人はきっと’めんどくさい人’で、出来れば関わり合いになりたくない、と多くの日本の若者が関係を持つことを’かわす’のかもしれないけれど、そうやってかわしていては、草の根レベルで、明るい方へ少しずつ変わろうとする何かを、踏みにじってしまうのだと、私もまた真面目に相手をしてしまう、めんどくさい人間の仲間入りをしてしまった出会いだったと思います。(友達が、第3者として間にはいれるフィンランド人で本当に良かったです。)
後世の一市民にすぎない私には責任を持つことも何を言うこともできないけれど、歴史を多角的に学び、いくつもの真実と向かい合うこと、自分なりに受け止めておくことは、私が唯一できることではないかと、やるせなく思ったものでした。
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その旅ではだいたい3か月オーストラリアをうろうろしました。
バックパックをずっと担いでいる自信がなくて、ゴロゴロのついたボストンバックにリュックを背負って旅していました。旅の基本は歩くことだと、常に強く妄信していたこともあって、「重い荷物」は厳禁だと心得て旅をしていました。でもなぜか、本の重さは物理的重量ではない、と素直に信じていました。カバンの中に10冊の本が入っていても、その他に何も入っていなければ、その鞄は、精いっぱい軽くされた世界一荷物の少ない鞄なのです。まぁ、実用的なものは何もない、という点では、これは確かに一つの真理…。
そして、いろんな本を持って旅したものだけど、「ヒトの分子遺伝学」ほど、私と他人をつないだ本はなかったように、思うのです。
なんて不思議なんでしょう!