JRやくもの計らい
所用あって山陰の方へ出向いておりました。
実に10年ぶりです。
訪問についても折々描いてみたくは思いますが、今日はJR車窓から見つけた小さな発見のお話。
帰途、島根から岡山に向かう途中、備前高梁を通るのですが、電車がそこで信号待ちで少しのあいだ停車しました。そのとき窓から見えた、ラッパスイセンがたくさん咲き誇る、なんとも可愛らしいお墓。
「山田方谷先生之墓」
あら、と私は首をかしげます。10年前も電車から同じ風景を見た記憶があります。
10年前は冬の訪問でしたので、花などは咲いていませんでしたが間違いありません。故人一人のお墓で、山間の斜面に作られていて、実際その場どうなっているかはわからないものの、車窓から見る限りでは、なんだか谷間に忘れ去られたかのように、ポツンあるのです。そのくせ、近所の子供がそこらで遊んで、その傍らで花を手折って供えてみているような、そんな陽だまりのような雰囲気があるのです。
JRは10年間、ここで信号待ち停車してるのですね。それも新鮮な発見でしたが、何より土地の人にとても愛されている風の、花の中のお墓の主に興味を持ちました。
スマートフォンなどない、そういう時代は、こういうことがあっても、名前をメモして後で図書館で人を探さないといけませんでしょう。今回10年前のことをすぐ思い出したということは、きっと当時も気にはなったと思うのですけど、そのままになっていたのでした。
今はスマートフォンを持たされている私。そこまで機能がわかるわけではないですが、検索してみました。
備中松山藩儒・山田方谷(1805~1877)、備中聖人と呼ばれていたそうです。
てっきり戦後に、つまり比較的最近、例えば地元の子供に愛される童謡などをたくさん作った学校の先生のお墓なのかしら、という印象を持った私としては、150年も昔の人であったこと、政治家としても商売人としても手腕を発揮した人であったことも、不思議に意外に感じました。
車窓から見た風景は、ただただのどかで、ひどく慎ましい印象だったので。
けれど、印象は間違いではないかも(印象通りの人だったのかも)、と思える逸話もたくさん見つけました。インターネット、すごいですね。
明治の頃なので、大きく時代が動いた時です。義が尊ばれた印象の強い時代ではありますが、人の世であった以上、そうでない人もたくさんいたでしょう。そんななか、会社員だったらすぐクビにされてしまうような頑固おやじのような振る舞いもせず、やわらかく自分を通し、義をとおしきった人なのだと思います。
人生一度きり、正義のない、あるいは義を感じないまま生きていくことは、誰にとってもつらいはずです。
見知らぬ人のお墓の、のどかな風情に、柔軟な愛情深い生き方、そんな生き方の秘訣を披露していただいたような気持ちになりました。私は少し頑固なところがあるので、他人に意固地にならなくてもやわらかく義を通していってごらん、と言われたような気持ちになったのでした。
150年のちの通りすがりの老人に、あたたかく故人の人柄を感じる。
すがすがしい、故人だけでなく、お墓を守る備前高梁の人々の心意気ではないでしょうか。
JRさん、心憎いところで、信号待ちされてますね。