(雑文)縁

私たちは何も持たずに生まれて、何も持たずに死んでいく。

縁があれば、どこかで出会うし、けんか別れしたって気にするな、という人も時にはいますが、私はそうは思いません。努力なくして継続する人間関係というのはまれです。気にするなっていうのは、出来ることを全部やってそれでもだめだったら、仕方ないからそう思えばいいよ、ということで、努力そのものを放棄しても大丈夫ということではないですね。

とはいえ、そっと距離を置いて、自分を悪者にしないまま誰かを切り捨てる、という人も結構多い現代社会。人間関係は煩わしい。それでも、誰かと出会うチャンスがあるなら、出来るだけ会っていけばいいと思いますし、友達同士を引き合わせるのだってたくさんするといいと思います。その方同士がウマが合えばそこから新しい縁が生まれますもの。ウマが合わないなら、それはそれでいいじゃないですか。それはね、努力の放棄とはまた違いますからね。

人生は、数秒、数分の命もあれば、数年、数十年。たとえば、どんなに生きても、私が見ることができる春は、100回は超えないでしょう。そう思えば、つらかった時も、一人だった時も、どの春も、本当に大切。数日の命を生きる虫たちの一分、一秒はどれほど輝いていることでしょうか。ただ、日の光を浴びるだけでも、ただ、吹く風を感じるだけでも。

だから、人間として生まれて出来るだけたくさんのいろいろな人と出会い、世界を広げることができるのは、それだけで宝です。合う人、合わない人はあるので、関係を構築するかは別問題ですが、それでもプライドやめんどくさい、ということで、切って捨てる、あるいはそのつもりはなくても放置してしまうのは、残念なことではないかなぁと思います。子供の時はみんなそうではないのに、大人はどんどん切り捨て上手になってしまう。私はニートだから、ホームレスだから、無職だから、八百屋さんだから、会社員だから、社長だから、研究者だから、教授だから、なんなら上流階級だからって、そういう型にはまっていく。

職業はなぜに「生命」をあんなに「型」にあはめることができるんでしょう!

それだけ人は社会的生き物である、ということなのでしょうかねぇ。子供の頃は、みんな純粋な生命体同士。それでも今の社会は、まぁまぁ世知辛く親の職業なんかが影響する「型」があることもあるようですけど、でも命として気負ったところはやっぱり少なくて、とても自由。まぁ、そうはいいつつ、ヒトの人生で人間関係ほど難しいものはなく、私も頭を抱えるので、ついつい問題を押しやりがち。想うことは優しいですが関わることって大変ですものね。ということで自戒をこめて。

人生はだから旅路

しかし、時にそういう「型」を一気に超える人との出会いがあります。赤毛のアン風に言うなら「こっち側の人」との出会いです。でも「こっち側の人」と出会って話すのは楽しいけれど、関係が構築されるかは、また別。これが巡りあわせのように構築されることもあります。私はこれを「前世の縁」と勝手に思っています。(前世があるとか、ないとか、どうでもいいんです。私は無宗教)

そういうわけで「現世の縁」の時は努力を怠ってはならないが、「前世の縁」の時は、ある程度めぐりあわせかなぁ、と思って、流れゆくに任せてしまったりもします。これはもう感覚的な話。でも、この人とは、絶対に前世でも家族か友達だったに違いない、と信じるに足る出会いの相手とは、流れに任せていても、なんでか一緒の方向に流れていて、時々ちゃんとつながるんですよね。つまり現世の自分の力量を越えていて、だから前世。

「現世の縁」も「前世の縁」もどっちも大事ですが、「前世の縁」の人は私が間違っても、その人は近からずとも遠からず見守り続けてくれましたし、私だってその人が間違っても、お互いを切り捨てることはないので、ともに同じ時を過ごせなくても、生き別れになった姉妹くらいつながっていると思います。

私は年の近い友達にそんな友達がいます。スイスとフランスと日本に。旅をするって良いことでしょう。中でもスイスの友達とは、外から働く力がありました。すっかり大人になった後でもこんな出会いがあるんだなぁ、という、これぞめぐり合わせ、という出会いです。デンマークの学会で出会い、仲良くなるも、学会ですから会期が終わったらお別れでしょう。ところが、学会の一か月後に、当時のボスから、彼女の住んでいる町の大学の先生に会いに行くように、指示が出ます。彼女の通っている大学の先生に会いに行くようにと言う指示でした。そうです、全く偶然に!でもね、彼女は会いに来てくれましたし、その後連絡もくれましたし、途絶えませんでしたし、日本でも会いましたし、私たちが友達として努力しなかったけど友達だ、ってわけではないんですよ。でも「現世の縁」の時は、努力は報われないときもあるけれど、それが全く楽しく、しかも自然にできた、というのが、前世の縁ではないかしら、と思っています。

前世の縁ですが、もちろんお互い、別な現世の今生があるので、いろいろ知らない世界をちゃんと持っていて、現世でも大切なことや、新しい視点をいろいろ教えてくれ、人生をいつもより豊かにしてくれました。遠くなることだってありました。現世には前世の「視点」を許さぬときがあるものです。

それに、せっかく「今」私としての生命もあるわけですから、「現世の縁」もたくさん築けたらいい、と思います。10歳でも二十歳でも不惑でも米寿でも、いつまでも。きっとそれは「来世の縁」につながりますもの。だから「現世の縁」で出会った人とは、緊張感も忘れず、できるだけ大切にお付き合いできたらいいです。

「現世の縁」の方からは、切り捨てられたり距離を置かれたりもしてしまいますが、そして私もしていますが、それは仕方ないんです。社会形成や生活の中で、関係を維持できなくなることもままあることです。悔やんでもいいし、忘れてもいいと思います。これを「来世の縁」につなげられるかが、今生の挑戦状かなぁ、とか思ったりするわけです。

何も持たずに生まれ、何も持たずにこの世を去るけれど、愛をもって生まれ、思い出をもってこの世を立ち去れます。

そう信じています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

前の記事

山笑う塀登り