山笑う塀登り

いえいえ、ちゃんと知っています。「山笑う」は夏の季語。

昨日塀登りの話を書いたので、思い出深い塀登りの話をしたく思いましたら、夏の話だったわけでして。とはいえ、まだ気候の良い頃の夏だったと思います。汗をかいた記憶がございませんもの。

山笑う 廃屋前の ヘルメット

思い出の塀登りの後、15歳の私が作った俳句でございます。

そのころ住んでいた、前原市(現 糸島市)から福岡市へ行くのに、日向峠という峠を越えていました。当時、母親や父親、あるいは家族で、峠を越えて福岡市に行くことは日常的なことでした。私は車酔いする質でしたので、車の窓を全開にして、頭も手も出して風を受けながら、歌も歌って、両親の運転する後部座席に乗っているのが常でした。これで絶対に酔わないのです。ノー天気な子供だったからではないですからね。

日向峠、皆さんいらっしゃったことがあるかしら。大学生の頃、奈良の飛鳥でレンタサイクルをしたことがあります。司馬遼太郎さんが書いていた「飛鳥の風景は朝鮮半島の原風景」という記述を読んでぜひとも見てみたくなったのです。いそいそ張り切って自転車を漕ぎ漕ぎ回った飛鳥ではありましたが、「うちの実家の風景にそっくりだ!」と、なんだか拍子抜けしたものです。そんな素朴な場所です。当時、「朝鮮の原風景」と司馬遼太郎氏に、こちらも書き残してほしいと思ったものです。

マムシ温泉は別に日向峠に近くはありませんが、まぁこんな雰囲気の場所

その頃、日向峠を越える少し手前に、大きなお屋敷風の廃屋がありました。それがなんだか風情があるさびれた建物で、子供心を刺激するのでした。

子供は廃屋探検にあこがれる生き物。

それで、その廃屋に、15の夏に、一人で行ってみることにした時のお話です。

さて、15歳の私、若くて元気ですいすい行った、書きたいところですが、残念ながら…。自転車を持ち出して日向峠に向けてえっちらおっちら。まず覚えていることは、思っていたよりすごく遠かったこと!なんせ、いつも車で通り過ぎたことしかなかったので、ひどく近所に感じていたのですね。しかし、麓から最初の野菜の特売所(無人)に差し掛かったあたりで(登りの1/3か1/4)、自転車が邪魔になりました。単純に漕ぐのがしんどくなり。

解決策:ガードレールに鍵で繋いで、自転車放棄。

思ったより遠い、という事実を踏まえ、あたりを見回して、ショートカットの可能性を探ってみたものぐさ少女の私。山を大きく蛇行する道路を無視した行き方、歩きであればぐるぐる遠回りしなくても、垂直にまっすぐ登っていけるに違いない、と道路をそれて畑だったか空き地の中を通って行くことにしました。

今となっては一体何の土地だったのかさっぱりわかりませんが、林でもなく、ともかく子供が突っ切れそうだと判断するくらいには整備されていたことを覚えています。とはいえ登りです。歩ける程度整備された平野の向こう塀があって、その塀を越えたら上にまたさらに平野が続き、やっぱりまた塀があって、と、だんだんに高くなっていくわけです。そうやって突っ切って、登りの半分あたりの車道にたどり着ける、といった塩梅です。

塀はね、高くなさそうに見えたんですよ。事実、当時の私の身長より少し低いくらい。つまり私の首当たりの高さの塀です。いくつかの塀は足場もあって簡単にクリアしたと思います。でも一つ、ちょうど頭くらいの高さのがあってですね、これが難関だったことを、なんでか昨日のことのように覚えているんです。

遠回りでも車道を歩いた方が早かったかも、と思いながら格闘しました。一時間は軽く。

まぁ、今も昔も見切り早く、反省するくらい諦めはいい方なのですけど、あの時は頑張れそうだ、というそのギリギリさが私を頑張らせた理由ではないかと推測する今の私。

この峠へと続く道は、生まれて初めて見つけたギンヤンマが息を引き取った場所で、とても優しい道。(しかし、横切るのは易しくなかった。)

運動能力の高い子供ではなかったので、体を使った格闘の末にやり遂げたことがあまりないのも、覚えている理由かもしれないですが、私は懸垂ができたことが人生でなく、この経験が、昨日のブログで、頭より高くなければ塀も登れると書いた根拠でございます。今もあの頃と何も変わらない心づもりです(突っ込みは受け付けません)。年の功がある分、智恵もついて、きっともっと上手に登れるであろうと自信満々でございます。なんちゃって、15の私は6歳の頃は頭の高さの塀を登るのは簡単であったという記憶の元その道を選んだので、はてさて、今はどうでしょうねぇ。でも大丈夫と信じています。おばあちゃんも冒険は心躍るので、体力の衰えを理由にあきらめたくはありません。

それにね、登りきった時の達成感は、まさにさわやかな風が吹くよう。

うれしかったです。

その後は、人間を想定していないビュンビュン通り過ぎる数台の車の運転手をビビらせながら、おとなしく車道を歩いて、そして、えぇ、ちゃんと廃屋まで行きつきました。

青い屋根の、木造の建物。

温かい家族がいたこと感じる、大きな大きな家。

背の高い雑草をかき分けて、昔はお庭だったのだろうと思われるところから、家の中を覗きました。もうドアもなくなっていて、床も腐って落ちていて、薄暗い建物の中に、ガラスの割れた窓から昼の日差しが差し込んでいたのを覚えています。探せばどこかに写真もあるはずです。フィルムカメラで撮影したことも覚えています。(なんせ9歳の頃からカメラ少女)

せっかくだから中に入ってみたいけど、でも私の体重だと、残っている床も抜けて、しかもなんだか踏みたくないものを踏みそう…。

不思議に怖くはなかったです。

結局腹をくくれず、惜しいような気持ちもしたまま、中には入りませんでしたが、初夏の明るい日差しと、行きついた達成感、そして、道路工事のおじさんの忘れ物みたいなヘルメットが廃屋の前にコロン、と置いてあった、その風景が目に焼き付いたのでした。そして、帰宅した後で、書いたのがこの俳句。

山笑う 廃屋前の ヘルメット

当時俳句をやってた私が、今になっても覚えている自作の俳句はこれだけです。山が笑った夏は、ムシムシした夏ではなく、爽やかでした。そんな爽やかな、ちいさな旅路。

とっても明るい夏の思い出。

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