垣間見たとき
生きていると、社会の中で、勢いをもって、人をコントロールして、時々気晴らしに踏みつける人たち、と、ばったり出会うことがある。そして会話がぜんぜん通じなくて途方に暮れる。でも彼らは幸せそうだし、満足しているように見える。つまり突然何かというと、その人たちが持っている美しいものは僕には見えないけれど、それがちゃんと見える人たちが彼らの友人となり、家族となっているんだろうなって話。その人たちはその人たちにとって大切なものとそうでないものの間に明確な線を引いていて、そうでないものに分けられると、その人の美しいところはますます見えにくく、遠くなっていくんだろうなって。
人と人がなかなか分かり合えない所以。。。
誰の中にもあるはず。そういうものだ、という「知識」が僕にはある。優しい人たちに授けられた知識だ。でも「体験」はあまり多くないかもしれない。僕は組織の中で、そうでないもの、になるばかりだから。
だけど、例えば、社会で生きづらいと感じる僕も友人たちがいる。友を想う。
僕が垣間見た彼らの姿はそれは美しい。
でも世間には、美しく気高い彼らを踏みつけてまったく気にしない人がいたりする。でもそれで彼らの美が損なわれることは決してない。
それから、小さな生き物。(小さな生き物はまだ僕といる。)
彼と僕は常識をともにしない。言語も共にしない。あぁ、でも僕は示される彼からの友愛に心を溶かす。彼の中に垣間見えるもの。それはひどく愛らしい。彼は僕を忘れるだろう。でもその愛らしさが僕の中から消えることはない。
そういうものなんだ。
僕は、話し合い努力すればいつかは誰でもうまくいくと信じさせてくれる幸せな子供時代と青春時代をすごした。僕のいた世界は狭かったけれど、それでも分からないもので、僕に何があっても決して態度が変わらない人間関係を持っていた人は、僕が思っていた人と違ったりする。それは自分を見直すきっかけになる。
だからかえって、うまくいかない人の中に垣間見えた美しさがあれば、それをきちんと心に留めて人と接していければいいと思える。相手を好きにならないにしてもさ。そのことによって余計馬鹿にされてもさ。「知識」も僕にそうするように教えてくれたけれど、今僕が感じるものはもう少し確かなものだ。それは痛みをもって学べたことだから。
何者でもない僕の、なんでもない人生の、なんでもないけど秘訣な気がする。
だって、誰も大事だって言わなくなったって、大事なものは大事なんだ。
そういうものが僕の中に今はある。それだけで十分な時を生きた気がする。恵まれた時を生きた気がする。
世界は今日も多くの矛盾を抱えながら、惜しみなくその美しさをみなに捧げている。