(雑文)食事と心
ちゃんと食べること、これって実は結構日々の毎日の静かな生活にメリハリをつける気がします。
一人で暮らすようになって長い私ですが、ます「きちんと」ご飯を作ろうと思うとき、これって結構気まぐれなんですけど、そういう日は割とあっという間に過ぎてしまいます。ご飯作るのって時間がかかりますよね。
がむしゃらに働いていた時、楽しかったけれどなんだけ生きていない気がしました。食事がおざなりだったんですね。(職場の引き出しの中にはカップスープとドライフルーツと素焼きナッツと各種ハーブティーが充実しており、夕飯になることがほとんどでした)
その後、定時で終わる仕事について、いまいち釈然としない人間関係に頭を抱えたときも、ともかく食事がどうでもよくなりました。食べてるんですけど、甘いものとか簡単なものに偏ってしまうのです。
日本に暮らすのは本当に便利で、35年くらい前から電子レンジなんかも便利に使えるようになって、頑張らなくてもある程度食事は作れちゃう、というのもあるのかもしれません。
私は、料理上手な母に甘やかされて育ったので、あまり食事に関心を持ったことがなく、一人で暮らし始めたから10年くらいは、世間がもてはやすごちそうというものには食傷気味という若者でした。料理をするのは嫌いではなかったですが、食材は野菜中心、肉を美味しいと思わない20代だったって、今思うと不思議です。中年になってからの方が、そういうものを美味しく感じるようになりました。親元を出てからしばらく(10年20年?)は食事がそんなに生活リズムを作っているなんて思いもせず。。。
なのにそんな私でも、今思えば、きちんとご飯を作る時は、心がきちんとしていることを表していたような気がします。
前にもちょっとお話しましたが、
てくてくてくと、歩けばどこまでも歩き続けることができるように思っていたころがありました。
走るのは苦手、鉄棒もできない、でも歩くことは大好き。
しかしまぁ、それはともかくマイペースに歩けるときのこと。一度うっかり2日間で100km歩くというイベントに参加して、なるほどその時は空腹とは無縁であったものの、休息によって次の一歩が限りなくつらくなるという体験となりましたが、いえ、しかしマイペースであれば、今も昔も長距離を歩くのは苦でないのです。
しかし苦でなくとも、疲れていなくても、歩いているとき侮れないことが空腹です。
お若い方の中には苦笑される方もいるでしょう。しかし私がこれを学んだのはむしろ空腹をものともしていなかった若いとき。
お休みを取れるときは、ともかく歩いていた私。神様とすれ違った気がした旅路もありました。山道の立て札だけを頼りに、古い歴史ある道を歩き続けて、単独で山登りをする人たちは、胆力があるなぁ、としきりに感心したものです。
ある山道で、特に危なげもなくてくてくと歩いた平和な道だったのですが、一回だけとても不安になった半時がありました。知らない人とすれ違った後でしばらく歩いていた時、なんでかすれ違った人がそっと後ろを歩いているような恐怖にとらわれたんですね。すれ違ったときにじっと見られたような。
林野庁に勤務する知り合いの知り合いのお嬢さんは、山の見回りがお仕事でしたが、ある日人の気配を感じて振り返ったら、斧を振り上げたおじさんがいたそうです。彼女はその後、犬を飼い、見回りは愛犬とするようになったそう。やがて勤務地が変わって山を降りることになったときは、東京に必死にペット飼育可能なマンションを求めたということです。
というような話が頭をぐるぐるしまして。(林野庁のお嬢さんの話は本当のお話ですよ。熊の方がましだったと言っていました)
それで走らずにはいられなくなって、山道を荷物を抱えて必死に走り…走り切れなくなっては止まり、また走り、というような形ない恐怖にとらわれたのでした。
しかし走るのは苦手な私。開けた場所に出たときに、ともかく落ち着こうと思い、そうだ、人はモノを食べると落ち着くらしい、気が付けばもう15時ではないか、とカバンの中からユースホステルで握ってきたおにぎりを取り出しました。
立ったまま、それこそ変な妖怪が目の前に現れる前にと、急いでむしゃむしゃ食べて、その3分後にはあら不思議。心はすっかり落ちついて、走った自分に照れ笑いしたことを(前にも書いた気がしますが、やっぱり)覚えているんですねぇ。
そういえば遊牧民のお宅にお邪魔していたころは、朝食を作ったら昼食の準備、昼食を食べたら夕食の準備と、食事だけでいっぱいいっぱいでした。粉から麵やパンを作るので、食事の準備に3時間くらいかかりましたしね。小さいころ母が似たようなことを愚痴っていた気がします。食事の形が失われつつあるのは、便利な生活の弊害なのかしら。どうなんでしょうね。心が強くないと、きちんとご飯を食べれないなんて。
肥満も痩せすぎも恵まれた生活の証かなぁ、と思うのは今の私が恵まれているからでしょうか。昔は太っているほうが美しいというくらい、食べ物がなかったです。なので、今は本当にありがたいです。けれど、ともかくこの恵まれた環境を上手に感謝しながら生きれていない自分をもどかしく感じます。
1週間に一回焼くパンは、トースターで焼きなおして食べると、私が作ったものでも本当にびっくりするくらいおいしく思いながら食べられるのですが、焼き直さないで食べると、ひどくもさもさして酸っぱいパンです。それがわかっていてもトースターで焼きなおさないでもくもく食べちゃう今の私。
もっとお友達が来てくれるような私だったらなぁ、とか、動物でも飼えば違うかなぁ、と思ったりします。
まぁ、知り合いの彼なんかは、子猫のえさを3時間おきに用意するのに忙しくて、自分は体重を落としたと笑っていました。ふふ。それも健康の一つなのかもしれないですね、心が満たされて、自分の食事を忘れたわけでもないですからね。子猫が優先されただけで。
食事を一生懸命作って、一人で黙々たべるって、つまらないのですもの。本を読みながらとか、インターネットを見ながらとかになってしまいます。
胸をよぎるのは、誰かと囲んだあの食卓、あのお弁当。一人の方が食べたいものを食べれるけれど、どんなごちそうを一人で食べてもその時のことは思い出さないのです。たとえ、いただいているのは命で、その命には私の形ない不安を払しょくする力があるって知っていても、なかなか役に立たないもの。
息を吸って吐いて、ちゃんと食べて寝て、静かに生きていくことが希望でした。そんな生活でも心のメンテが難しいなんて思いもかけなかったものです。
食事がきちんとできる人は、心もきちんと整った人だと思います。形からだけでも、きちんと食事できるようにならないかしらね。年を考えて、本当は若い方に薫陶を与えられるような年寄りでありたいと思うので、ため息が出てしまいます。どうやら若い方に引っ張ってもらうことの方が多いよう。