(雑文)夏の夕暮れと古い書き物

色褪せたハガキ、自身の走り書き、日記にはできるだけ楽しいことを書いてきたつもりです。

時々怒り狂っている言葉。時々絶望している言葉。泣いていることもあったけれど、今思い返すとみんなクスリと笑ってしまえるのです。私、未熟だったなぁって。時間って優しいですね。

思い出の中の空はどこまでも澄んでいる。私は、あぁこの時もいつかは思い出に変わってしまう、となんとなく自身の周りが流れていくのをぼんやり見ているような妙にあきらめの良い子供だったのです。でもだからこそ、死ぬ前にいい人生だったと笑えるようにと思って、努力していたような気がします。空振りばかりの努力でした。頑張ったことだけれど、一人で挑戦したことが多くて、それらは今は苦笑しちゃう努力たち。

死んだら、神様にいっぱいきらきらした思い出を話して、いっぱい感謝して、そして神様を笑顔にしたいけれど、あきらめよく生きすぎてしまって無理そうだな、と思って。でも、90億人も語り部がいて、他の動物も植物も岩も水も神様には語るでしょうから、私の語りなんて必要ないのかも、とちょっと安心して、でもため息をつく。

生きていて一人になるのは本当は難しいことです、本当はね。でも自分でカギをかけるのは割と簡単なんですよね。

両手を一杯広げて空を抱いても、草原にぽつんとしている。

自由で誰も傷つけないし、誰にも傷つけられないけれど、神様は喜ばないような気がするのはなぜでしょう。

古い書き物のなかで、今でも静かに流れている時間。過去に戻っても同じようにふるまうでしょう。悔いはないけれど、少し寂しいときがあります。

夏の夕暮れ時、公園で遊んでいたお友達の幻影と、あの時の幸せが、ふっと胸を満たして消えていく。

少しだけ切なくて、寂しくて、でも大切な気持ちを掴めそうな、あやふやな愛しさ。

夏は暑いから苦手です。小さいころから冬の方が好きだったと思います。冬でもちゃんとそう言えるくらい。

若いとき、ぼんやり歩いているのに歩みを止めることは許されていないところもあって(若者って偉いですよ)、暑さに頭痛を押さえながらも、めげずに、いいえ、めげながらも歩いた道を思い出します。でもそれもなんだかいい思い出なの。だから夏は嫌いじゃない。夏には太陽のエネルギーがある。

今は歩いているかしら、とちょっと不安になるだけ。生きている限り、止まっていないと思うのだけれど。

夏は日が長くて、暑い暑いと言いながらそれをものともしなかった幼い日が私にもあって、そのひと時が胸を満たすあの夕暮れは、夏の宝石だと思います。

夏の夕暮れは、古い書き物に似ています。

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