(雑文)始めたからには

ちょっと頻度が高すぎな気もするけれど、再度僕が登場。

ミオさんは最近読書に夢中で、どうやら晩にブログを更新しようと思いつつ忘れるらしい。

昨年

僕らの共通点はアイスクリーム好き。最近はかき氷だけど。夏にひんやりした甘味を食べながら喫茶店でゆっくり本を読むのは楽しい。

さて、コロナ下のオリンピックということで、第一次世界大戦時のベルリン大会の話や1964年のオリンピックが、新聞やメディアでよく取り上げられた。

今でもオリンピック中止を叫んでいる人はいるけれど、始めたからには、終わり良く、やって良かったと言って終わりたい、と僕なんかは思ったりする。

そうなんだけど。

「始めたからには良いものになってほしい」

これって結構、難しい気持ちなんじゃないかと思い悩んでいる。いや、素直でむしろ当たり前の気持ちっていうのはわかるんだけれど、だからこそ怖いものかもしれないと思ってしまって悩んでいる。

戦時下のオリンピックと比較されるものだから、この心理が戦争にも通じることに気がついてしまって。つまり、「始めたらからには勝利で終えたい」みたいな。

多分、平凡で平和な暮らしをしていた人たちが、ある日突然戦争がはじまりました、と宣言されて、本当は戦争は嫌だし誰にも死んでほしくないけれど、やめられないなら勝つために頑張るか、と思ったときに、狂気のドアが開くんじゃないだろうか。だって抑止力っていうのはこういう人が多いほど失われやすいものかもしれない、と思ってしまったんだ。世界大戦の場合は特に、こうして戦争に飲まれた人も多かったんだろうと思う。

オリンピックは平和の祭典だし、コロナは戦争ではないけれど、実際戦争に例えて、利権の絡んだ人殺しだと街頭で演説している人がいる。今回はメディアもこうした内容を流したものを多く目にしたのでこれは生々しかったし、戦争も結局は雲の上の誰かの利権だ。

海外でよく言われていた非常事態宣言とはよく言ったものだと思う。コロナで警察みたいな取り締まりの態度をとる人がいるように、戦争でもそういう人が自然に現れたわけだし、狂気ってどこに現れて、僕らを飲み込んでいくんだろう。

オリンピックは、自分に妥協なく努力を続けてきた人たちの、その技量の昇華を目指す祭典は、敬意と輝きに満ちたもの。

テレビ越しに視る、彼らは活躍は確かに美しいのに、なんだかやるせない思いも抱いてしまう。

コロナ下だって、平和とコロナの終息を願って、アスリートたちが技を競う場としてだけ見ることができたら、本当にいいのに。。。巫女の祈りの舞みたいに。関係者の多くはそういう気持ちのはずだし。

けれど、それって臭いものに蓋していることになるのかな…

今から76年前の8月、今から10年前の3月。

東日本大震災がおきて数か月後、僕はドイツで、ドイツ人の友人に、「日本には広島と長崎に原爆が投下されたろう、そして今度は原子力発電所事故だ。日本という国は…」という言葉をかけられて、彼の言葉を遮り、自国の弁護に励んだ。人災は運命や宿命じゃないはずだ。

けれど僕はいま彼の言葉を最後まで聞けばよかったと思っている。

「日本はもうだめだよ」と海外にいた多くの友人が僕に言った東日本大震災。それを聞いた僕の憤り。でも津波の映像はそれだけ強烈で続く原子力発電所の事故は、それだけ絶望的に聞こえたんだろう。これは日本人にとっても同じで、多くの人がボランティアに行った。僕でさえ行った。そして復興は進んだ。それは当初、予測できなかったくらいの速さで。失われた人は帰ってこないけれど、一歩を踏み出し、愛を育み、ささやかにけれど懸命に。そして今日、復興オリンピックを願って、という、その主張や気持ちがわかるほどにちゃんと復興してみせた。

汚染水問題も、土壌汚染も、なくなってはいない。けれど僕らは、この国で、大事なものを大切を言える生活を送れている。

だからもう少し考えてみる。

終わり良ければ総て良しというけれど、苦しみの傷がのこるのだから、戦争に勝つことは終わり良しとは言えない。

震災の方は、原発が解体できて、汚染問題が解決するまでは、終わりとは言えないけれど、町が復興しても、愛する人を失ったのだから、やっぱり終わり良し言える日は来ない。

しかもどっちも人災だ。

でも、コロナの感染者があまり増えなくて、選手たちが精いっぱい競技して、お茶の間に感動をもたらすオリンピックだったら、東京オリンピック2020は終わり良し、と言えると僕は思う。

でも、このオリンピックに関しては、終わり良し、にしようと思っている人がなんだか少ない気が、するな…。

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