7月の猫さん
気が付いたときは、大きな川につながる小さな支流に独りぼっちでした。
前は誰かがそばにいた気がするけれど、離乳と同時に母猫の姿は消えて、傍にいた兄弟は一匹一匹と動かなくなり、最後まで一緒にいたあの子はどこに行ったのかしら。
小さかった相棒。
猫さん自身は、少しだけ早く生まれて、母猫がいなくなる前には、自分でえさを取ることも覚えていました。小さな相棒は、そもそも離乳途中だったので、ミルク以外を上手に食べることができませんでした。
ここを離れたら、もう二度と再会できない気がして離れがたく感じるけれど、梅雨は終わり、夏の日差しはますます厳しくなっていく一方です。どこかへ移動するべきのような気もします。
朝目が覚めたら、川の流れに沿っておかれていた木桶から、水を飲むのが日課でした。
桶からは徐々に小さな葉が育ち、今は猫さんの顔よりも大きく広がっています。
ある日すっと一本の茎が伸びて先に小さなつぼみを付けました。
人の目に薄いピンクに見えるそのつぼみは猫さんには、くすんだいろいろに見えますが、それでもその優美な姿を見るのが、猫さんは好きでした。
つぼみは少しずつ膨らみます。
気温はどんどん上がります。
気温の上昇は猫さんを不安にしました。もっと涼しい場所を見つけないといけない。それでも猫さんは、夜の狩りが終わるといつもそこに帰ってきて、寝そべるのでした。
雑草や、プラスチックの泥にまみれたごみ。小さな虫が体にまとわりつついてきますが、それはもう生活の一部で、猫さんを患わせはしません。何より、誰かと一緒だった記憶が優しく猫さんを包んでくれるその場所が猫さんは好きでした。
死はいつも身近にあったけれど、その花の傍にいるとなんだか安らぐ気がするのでした。
空は青く高く、草陰は快く優しい日陰を提供してくれています。
昼間猫さんは、鳴き始めたセミを捕まえようと、太陽の下に出てきて遊ぶこともありました。ほっそりした植物の大きな葉にたまったきれいな雨水を飲んでみたりもしました。
まだ幼い猫さんには、世界は過酷でした、でも同時に輝いて見えるのです。遊ぶ元気が出ない日もあったし、お腹はいつもすいていたけれど、世界はただあるだけで、猫さんにいろいろなものを見せてくれたのでした。
小さな支流の草陰の、蓮の花桶の立ち並ぶ川沿いが猫さんの世界です。カメがいたり蛇がいたり、鳥が飛んできたり、不思議な声をあげて鳴く小さいけれど喧しい空飛ぶセミ。決して声を上げないけれど、ひらひらと猫さんを誘うように飛んでいる蝶々。じっとしているのに近づくとふわりと飛び上がる光るトンボ。不愉快に血を吸う跳ねるノミや姦しいハエ。土の上でも小さなうごめく者たちが多くいて、特に黒くて光るアリたちは、餌を見つけるいいサインではあるけれど、猫さんよりも早く餌をもっていってしまうことも多い油断のならない相手でした。
ある日、猫さんは相棒を思い出させる人間と出会いました。人間も猫さんを知っているかのようにじっと見ます。川沿いの人間は猫を嫌う生き物であることが多いです。猫さんはさっと身をひるがえしました。
蓮のつぼみの背が高くなり、すこしずつほころんできました。
相棒を思い出させる人間とは、その後2回だけすれ違いました。食べるものをそっと置いてくれました。
そして猫さんは思うようになりました。相棒を待っていても、きっとここには帰ってはこない。でも相棒はきっと生きている。ほかの兄弟みたく動かなくなったんじゃない。
太陽の日差しがギラギラ照り付けるようになってきました。
7月最後の日の朝のこと。
いつも見ていたつぼみが大きく花開いたことに猫さんは気が付きました。それを見て猫さんはついに決めました。
待つことはもうやめよう。
猫さんはいつものように桶の中の水を少し飲んで、蓮の葉を優しく触ってから、いつもと違う花を見上げるように背伸びしました。
優しくたたずむ淡い色の白い大きな花が、光を受けて静かに揺れています。
子猫さんだった猫さんを見守ってくれた、そして今だって子猫さんな猫さんに「いつでもおいで」と伝えるようにキラキラと光を受けて。
遅咲きだったその蓮は短命で、猫さんの姿が消えてから数日以内に、見守った幼子しのぶように一つ、また一つと花弁を落としていきました。
風が誰かに届けるように、その一枚の花びらを高く高く吹き上げました。