文明のSDGS(一般庶民の考察)

僕もミオさんも冒険小説が好きだ。昔、統治者の傍で大事にされていた姫巫女が、貧しい領民の一揆に寄って殺される話を読んだ(恋愛小説だけど、ともかく彼も彼女も死んでしまう)。この本では、彼らの死は未来への教訓となり、彼らを愛する者たちに悼まれる形でおわっていて、きれいな話であったとミオさんは気に入っていた。それはともかく。

統治者は、領民の貧しさに責任がある。戦争とか駆け引きとか、いろいろな結果の末の高税だけれど、統治者の一番は領民であるべきなので、役職を考えれば処刑されるかもしれない(恋愛小説のヒーローなので、彼自身は悪い人でない)。姫巫女が殺されたのは、その統治の一端を担うお告げをしていたことが原因だけど、彼女は実際には貧しい女性たちを助けていた。一揆で処刑された直接の理由は、むしろ統治者の傍で美しい衣を着て、飢えることなく食べ、肌の手入れや髪の手入れができていたことが理由だ。外から見る人にはわからなくても、巫女の生活は辛そうだったので、日に照り付けられて汗水を流していなくても、仕事という面ではしっかりしていたという設定。

医学の知識があったから、清潔にしていたこと。生まれたときから姫巫女だったから、その恩恵(そして苦しみ)はある程度当たり前だったこと。そういうことが、罪とされて彼女はまずショックを受ける。しかも統治者である恋人は彼なりに領民のことも気にかけていたのに死ぬし。とはいえ、一揆の人たちにとって彼女の罪は、大勢が彼女と同じ衛生を保てなかったときに、一人衛生を保てたことなんだろう。たとえ彼女は彼女なりに学びの恩恵を広めようとはしていたとはいえ、教えられても実践できないほどに貧しい生活だったわけで。

「たしかに私は毎日湯あみをした、清潔な衣をまとっていた、それが罪か?」と問うたヒロインの言葉は何となく僕の胸に残っている。

湯あみ自体は罪じゃない。問題は周りをどれほど見ているか、になるのだろうか。権限の大きな立場の人間であった以上、彼女にはもっと社会を変える力が確かにあったように見えるけれど、物語の中では彼女は悩み惑いながら最善を選ぼうと足掻く一人の人間でしかなく、読者としては何とも言えない。少なくても彼女自身は他者に悪意を持って人を害したことはない。むしろ助けようとする心を持った人。一揆の人たちは、悪意を持って他者を害している、ともいえる。でも自身の大事な、愛する人たちを救うためだ。自分のためじゃない。人って簡単に人を裁くからなぁ。そして間違っても自分は正しかった、仕方なかった、と正しいと信じていないと、心が壊れちゃう弱いところもあるからなぁ。

脈絡ないなぁ、と思ったかもしれないけれど、僕は今晩SDGSについて考えています。

産業革命ののち、そして世界大戦があり、今から100年、いや200年の間に地球上の現生人類はあっと今に、地上のほかの声明を道連れに破滅のがけっぷちまで来てしまった。その危機への道のりに在ったものには、悪いものもたくさんあったけれど、良いものもたくさんあった。人の歴史だから、それはもう言うまでもなく。

そして今、SDGSを前提に、そこからさらに飛躍して、技術と科学の力で危機を乗り越えるだけでなく、より高いところへ行こうとする人たちと、潔く文明を捨てようとする人たちと、気にせず破滅の道を無邪気に歩いている人たちがいるように思う。2番の文明を捨てる人たちの中には、そうはいっても生きていかなくてはいけないし、あるものはあるのだから有効活用しようという意向なのか、インターネットを駆使する人たちも多い。90億人の人類の一人である自分だけが自然回帰しても地球環境は変わらないし、一人として人間社会で生きていく中で、完全にはぶれたらやはり生きていけないから、という理屈は分かるのだけど、SDGSを叫ぶユーチューバーはどこのグループの人だろうとか、そういう人によってはくだらないと感じるだろうことを僕は悩む。

山奥で暮らして、自分で電気と水を引いて、畑仕事しながら自給自足して、ユーチューブで「自然の中で生きること」を発信する人に傾倒する人もいる。IoTを除けば、この人たちは確かにこの現代社会で相当上位で自然に負荷を与えていない生活をしている。(電波は生命体に、割とよくない影響があるし、電波を維持するための技術は電気もガスも使うけど)ともかく彼らには、自然界に放り出されても自力で生きる力が確かにある。けれど、ユーチューブをみて傾倒した人がいたとして、その人が同じようにして、果たしてその人は生きていけるか、というとこれは難しいと思う。90億人の人が、彼らの言う通りに都市を捨てて、山に隠遁するとして、それだけの自然がどれほど地球上に残っているのかな。啓蒙は大事だし知識も大事だ。活動を否定するわけでなくて、なんだかそういう人たちから責められているように感じる自分自身について考えている。

山で暮らす人は、キノコやイチゴといった生きるための糧を収穫することは、いつもは無理でもできることはあると思う。僕が明日から山でテントを張って、草木で籠を編み、靴を編み、薪を作り、植物を採集し、飲めるかわからないけれどその辺の川の水を沸かして飲み、いるかわからないけれど野生動物を狩って、その日のことだけを考えて強く生きていけるか、というとそれはもうほとんど生を放棄していると言っていいんじゃないかと思うんだけど、これはすでに傲慢なのかなー、と悩んでいる。

実際の僕の生活では家の外に出ても、勝手に摘める草木は多くはない。公園と街路樹と、マンションの人の菜園がある。でも近所に川があるから、川の土手の雑草は摘める。水やガスや電気は公共のものがある。この「公共の」電気やガスや水が、自然環境を壊しているから即使うのをやめなさい、僕一人に言われたら、僕は途方に暮れるんだ。と言ったら、ひどい人間だろうか。日本国民全員がそうだったら、まぁ助け合いの精神も生まれて、何とか生きられるかもしれないけれど、社会の助けのない状態で、僕一人でだったらかなり難しい。ユーチューバーたちもきっとそれは分かっていて、だから必死に見本を見せて、啓蒙活動にいそしむんだろうけど。

隙間風のない部屋に寝ている(自分で家を建てることはすぐにできることじゃない。お金もいるし)。毎日風呂に入る(water foot printという活動をしている友達にもったいないと怒られた。清潔だけ考えれば、風呂は毎日入る必要はないから)。毎日髪を洗う(前述に同じ)。小さなベランダで、植木鉢でハーブを育てている(自給自足じゃないけれど)。リサイクルできるものはできるだけする(都会人の良識としてのごみの分別)。スーパーでは、値段と質を見て買い物をする(一応地場野菜を優先くらいはする)。自然環境に良い、と謳うものは価格が3倍するし、今のところ実際の質もよくわからない(この価格設定に資本主義の嘘があるだろう、と思うけれど、良識もお金もある友達はそれでも自然派のものを買う)。石鹸は手作りする。シャンプーもそれで賄う。米は買う。小麦は買う。しかしご飯は家で炊くようにしているし、パンも家で焼いている。つまり外食よりは自炊をする(僕は料理が得意でない)。朝起きる。外を見る。世界をきれいだと思う。洗濯機は使う(SDGSの面からはふろの残り湯で手洗いだろうか…)。罪なのかなーと姫巫女の言葉が頭をリフレインする。

僕は、SDGSを気にかけているけれど、友人たちがたたえるものの中で一番の難関が、電気とガスと水の自己供給で、これが一番地球を汚す。

できないならば、500年前だったら(?)そもそも淘汰される命だったろうし、生きる資格がないのでは、といわれると、さすがに重い。90億人の人が少ない自然を取り合い始めたら、僕は一番に死んでしまうだろう。弱肉強食なんてもってのほかだし、今でさえ競争化社会のなかで、僕の競争意欲は高くなくあきらめも早い。こういうふうに書くと、自分を卑下するなと怒る人が時々いるけれど、自身を生かすことに他人を押しのけるほどに価値があると思えない人も、世の中には一定多数いる。そういう人たちも、世界をきれいだと思ってささやかな幸せを大事に生きているわけで、無理なら死になさい、と言われたら傷つく。君なら大丈夫だ、弱肉強食で勝ち抜け、と言われてもなんだか共感できない。

でも、弱っちい僕らだって、地球は美しくいつまでも続くことを心から願っている。世界を美しいと思っているから。それに僕らの努力が足りないと、次世代が困る。だから、出口の見えない歩みの中で、僕が尊敬できる方向性を示す人たちの、情熱にそのまま迎合できない自分が歯がゆい。

最初に書いた姫巫女は、どちらかというと、技術を利用してより高みを目指そうとする人たちに分類されると思う。現代でいうと、現状を割と正しく把握している知識階級の人たちだ。生活はかなり保障されていて、その恩恵をくれている社会制度のことも理解していて、両方とも守って地球を守ろうとしている人たち。すでに進行してしまっている破壊を、やめるだけでは、それは進行が遅れるだけで、食い止めることにはつながらない、というやつだ。もののけ姫で言うと多分エボシ御前かな。エボシ御前は、人のためにでいだらぼっちを殺してしまって、自然を破壊するしかない、と割り切っているように書かれるけれど、自然に敬意を払っていないわけではないからさ。合理的に必要であれば、血を流して何かを捨て、自然を守ることもできる人たちと信じたい。

そして、自然回帰を素でやり遂げちゃう人たちはサン。人として、とても謙虚だ。

一揆の人たちと、(正確な現状は分からない、という弱点もあって)資本主義社会を突っ走っている現代の大多数は、もののけ姫にはいない。現代社会では、大多数と企業人間と政治家もこの辺にはいっちゃう。エボシ御前の展望も、サンの情熱も、アシタカの歩み寄りもない、という点でのことだけれど。

僕に向かって、自分の生活は罪なのか、と考えるだけでもいいです、見直すだけでもいいんです、という人たちは、アシタカかもしれないけれど、確かに悠長で、地球は本当に手遅れになってしまうかもしれない。

生物としてここにいるからには、幸せに感じながら生きたい。山の中で暮らしていない僕は、サンのように暮らしても、村八分という全く質の違う苦しみもあるだろうし。。。。できることをしていくしかないけれど。。。

他生物のことがわかるようになって、微生物を知り、消毒の概念が進み、オートクレーブができて、化学物質がわかって、抗生物質が発見され、病が激減し。。。やがて僕らは増えすぎた。農業でも技術が進み、食料もたくさんできるようになった。でも世界にはまだきれいな水を飲めない人がいて、衛生環境の良くないところで病に苦しむ人がいる。現代社会はこの人たちを救い上げようとする心意気がある文化的な社会でもある。逆に自然回帰がこういう環境に戻ろうと言っているわけではないことは分かるんだけど、僕にはバランスが良く見えない。現代社会のサンはどこで線引きしているんだろう。僕は多分、心の半分以上はサンの立場に賛同しているのだけれど、いまのところ、アシタカの立場にも立てない…。

僕は田園風景が好きだ。広がる農地と里山が好きだ。人と自然がお互いを慈しみあったひどく調和した世界に見えるんだ。そしてそれは(IoTを除く?)すべての文明を潔くあきらめた、自然回帰の姿じゃない。

宮崎県高千穂

文明はここを乗り切れば、地球(生物の生存に適した無機世界)とも生物(他生物もヒトも全部ひっくるめて)ともバランスが取れた、そして僕らは知識と技術を内包する文化を失っていない、そんな世界を得られるだろうか。そのために僕は、個人として、どっちを向けばいいんだろう。

どっちかを向けと、せかされているように感じて、姫巫女のように処刑もされたくはない僕は、なんだか途方に暮れている。

行き先を決めているように見える人たちが、何を選んで、何を捨てるつもりでいるのか、よくわからないからだ。

だから、多分すでに選んでしまった僕自身が、誰と歩んでいけるのか、よくわからないんだ。

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