海鳥が舞う

ルーン文字で氷を表す文字は’I’ (イス)、それは限りなく永遠で、限りなく澄んだ存在を意味する文字でもあるそうだ。

すべてが凍る、北の海岸を歩いていた頃、雨こそ降らなかったけれど突然に海が荒れ、冷たい海の表面に高くあがる波をぼんやり見つめていた日がある。その波は海岸につく際には長く浜辺に広がるばかりで海に飲まれるような恐怖も与えなかったとはいえ、しかし私の何倍もの高さがあり、眼前の出来事ながら岸辺には何故かさほど強くない風が、海の上で荒ぶり舞って海水を高く巻き上げる様には、とても圧倒されるものがあり、目が離せなかった。

目を凝らして魅入られたように見つめてる視界の先に写るものがあった。

海鳥だ。

波間に海鳥が舞っている。

冷たい北の海の果てで、生きるために魚を採っているのか。何羽もいる。波にのまれそうな低空飛行をしながら、実際に高波が崩れるときには高く舞い上がり…。かつてほ乳類が生きることができなかった北の果てで、人類が見つけた生き物は多種多様な海鳥だった。その子孫なんだろう。

その景色は、限りなく美しく、限りなく力強く、私の目に映った。

圧倒的な自然の中で、一歩も引かずに生きる姿。

澄んだ氷に囲まれた、厳しい北の大地がある。その大地を囲む海があり、海岸に打ち寄せる波がある。

そういうものに圧倒された晩に、温かな宿の部屋で、窓の外を眺めながら、とりとめのないことを考えた。

人間は、幸せな時に自ら悲しみや苦労を探し出してしまったり、生み出してしまう大きな脳を持ち、それなのに、今日笑うために、今日行った努力は、本当は大きなものなのに、薄氷の上にあるものなのに、そのことは失念してしまったり。

幸せそうに笑っている人も、人間である以上、当たり前に多くの悩みや苦しみを隠している。そのことを常識と説かれても、それは他ならぬあなたの苦しみに寄り添うことにはならないけれど、でも、生きることがつらい時、その時こそ本当に生きているだけで意味があることを、自然は簡単に提示している。平等に、それは優しさなんて一片たりともないような過酷さなのに、深い慈しみを感じるほどに。

厳しい環境を、ただそのままに受け止めて、生きている姿が、どれほど尊いか、その姿を見せてくれるだけで。

苦しい苦しいと思いながら生きている、その、おそらく自分ではみじめに感じている姿が、それだけでとても美しいと、自分で気が付くことは難しいけれど、自然の中に身を置けば、生命というものがただ懸命に生きていることが、ひどく当たり前で、それなのにとても胸を打つものであることがわかる。

90億人の人がいれば90億通りの選択と答えがある。ほ乳類や虫も含めて命の数を考慮すれば、それはもう数えることはできないほどの生き方になる。体はみな原子と電子でできているかもしれないが、しかも同じ思考をする魂は一つもない。ならばこの生は、無限に広がり、無限に一つの生でもあり、私たち自身だけのものでもある。

地球上のどの命も人類の活動で終わらせることがないように、人類自身の存在を自ら貶めないように、生き続けることの美しさを未来につないでいけるように。これがSDGSや自然保護の本質であればよい、と思う。

それは、大切にすること、思いあうこと、思いやること、見つめること、理解しようとすること、愛すること、そういうことで構成される活動であると思う。

冒頭の繰り返しではあるが、ルーン文字で氷を表す文字は’I’ (イス)、それは限りなく永遠で、限りなく澄んだ存在を意味する文字でもあるそうだ。太陽の光が遠い北の果てには、過酷であるがゆえにひっそりとただ静かに白い輝きを保つ営みがある。北の果てで確かに私はそのことを感じた。

一方、南では、太陽を表す言葉に同じ意味がある。太陽の下で営まれる生活の躍動感、リズム、叫び、その中に同じ祈りがある。

北の地でも、南の地でも、祈りは光で、つねに自然に寄り添って、何千年も変わらない。

私自身に、過酷な自然の中で命を保つ知恵も力はないけれども、この現代社会に生かされてきた。そのことに感謝しながら、命に対して深い愛情を示し、隔てなく等しく接する自然の手によって采配される運命を、祈りとともに歩みたい。その気持ちを生活の中できちんと(他者でも自分にでもなく)世界に表しながら生きていくこと、それが今という時代に生まれた暮らしの在り方の一つであってもいいのではないだろうか。

老いて提示された課題に、胸を痛めるだけではだめなのだ、それはわかる。考え続けていきたい。

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