(雑文)紙の新聞

考察するディケンズ氏_思索と責任感と夢を育てる情報はどこ

自宅からテレビという存在を失ってそろそろ30年です。

インターネットが市政で身近になったのはここ20年ほどのことなので、紙の新聞とラジオは30年間、いえ、その前から私にとっては社会を知るためになくてはならないものでした。

いずれにしても仕事ではネットは欠かせなかったため、今はインターネットとラジオと紙の新聞と、それから井戸端会議が私の社会情勢を知る手段です。地域の情報は井戸端会議から入ってくるものが一番有用で感銘を受ける情報が多いです。井戸端会議は人との交流という点でもとっても大事。ラジオは音だけ、ということと、パーソナリティの人が話すので、テーマとなった事柄に関して説明が丁寧で、何事も解説がある程度あり、分かりやすく愛聴しています。

新聞は、一人暮らしを始めてからずっと紙でとっていますが、若いころは割と、第一面にプラスして天声人語だけ、人生相談だけ、ひどいときは星占いだけ、みたいな読み方をしていたころもありました。しかし、ともかく記事内容への信頼度が抜群なので、前後関係について詳しくないときはインターネットで調べたりしながら必ず目を通します。朝日新聞も毎日新聞も読売新聞も、10年くらいは継続して読んだことがありますが(引っ越しの度に変わったり、意欲をもって複数読んだりしていた時期がありまして…)。経済新聞が一番難しかったのは、今でも自己反省と苦笑いネタのです。どの新聞も、夕刊に地域や生活関連の話が多くて(読むのも野次馬根性も含めて読む)、朝刊は経済や政治の内容が充実している(社会情勢を知るために読む)イメージです。

自宅の時間をとれるようになってからは、ニュースについて心ならずもまぁまぁ念入りにインターネットも新聞も眺めるようになりました。コロナ情報、戦争情報、ネットと新聞は、重さは違っても同じニュースを記載しています。そして最近、今更ながらある事実に気が付きました。紙の新聞はインターネットと比べると、ずっと倫理的な話や人の幸せについて考慮された記事になっていることです。

何かが起きたばかりの頃は、被災者の人生の話、患者や患者の家族、戦争の現場で暮らす人々一人一人に親身なった記事は、ネットにも新聞にもありました。落ち着いてくると、数値が前面に出た、経済的、行政的な変化についての記事が多くなってきます。主観の入らないニュースは大事なのでそれが悪いというわけではないです。今回はそれよりももっと、受け取り手である私たちの側の話をしたいのです。

ネットはショッキングな映像で、人の心をぐっとつかむ媒体ですが、受け取る側の反応は多種多様で、その正直さはいいことでもあるのだと思うのですが、批判もすごく多くて、前後関係を深く考えたものが大変少ないです(思ったことの垂れ流しってこんな感じかなと、感心するくらいには)。

でも一方で、紙の新聞は、現場にいるのが人間であることを紙面から決して失わず、ウクライナの人々の苦しみも伝えますし、ロシアの人々の葛藤も伝え、憎むべきはロシア人ではなく戦争であることを、継続的にずっと繰り返し繰り返し、特集したり、小さい記事になったりしながらも、紙面に載せているように思います。

何が言いたいかというと、暖かい部屋でおいしいものを食べながらネットで無責任な批判する人たちに、ぜひ紙の新聞をとってもらいたいなぁ、と感じているのです。ニュースで伝えられていることって、スマホの流し読みの片手間で足りることじゃないと思うのです。

批判はね、大事なんですよ。いいことです、いっぱいしてください。

先生でも政治家でも会社員でも、人から批判されることは人間社会に生きる人は誰でもあるだろうし、その言葉に傷つくこともあるけれど、批判は大事。これは間違いないです。必要なのは、その批判が無責任なものか、実際より良くなるために生かせるものか(理のあるものか)判断する力だけです。しかしこれは、理想的には子供が大人になるまでに身に着けているはずの力ですから、冷静ささえ保てれば、大人は誰でも批判を受けた方がずっとプラスになるはずです。

それに、昔、教員をしていたころのことですが、私の生徒が私を悪く言うのを聞いて娘が烈火のごとく怒ってくれたことがあり、愛情の思わぬあり方に胸打たれるようなこともたまにはありますしね。ふふ。でもね、あの子だって自分の先生を悪く言っていたことはあり(それは子供が自分でものを考えていく上で大切なことでもありますが)、その先生にも家族はあったわけですからね。みんな同じです。彼女は、批判される家族に胸は痛めても、ぐっと我慢するようになってくれました。

批判がなければ間違っていることに気が付けないですもの。なぜ批判や不満が出ているのか、よく考えてみることができれば、自分のあり方を変えない、ということも、反省して変える、ということもできるし、その時解らなくても何年か後に突然理解して、飛躍の糧になることもありますからね。

でも、無責任な批判は、該当者だけでなく第3者をも気鬱にします。あんまり垂れ流すのは良くないと思います。特に二十歳までにはそれぐらいの分別が欲しい…。でないと子供も学べないし、導けないし…。

それで、紙の新聞がもっと普及することが、その簡単な手段になるのではないか、としみじみ感じたのがコロナとウクライナ情勢の扱われ方でした。

紙の新聞は、文書として少なくとも何十年、保管されてきた事実がある分、書く側の気概が違いますし、時には命さえ賭していることは周知の事実です。読む人もある程度マナーをわきまえていて、このマナーはやはり新聞にちゃんと触れていくことを通じて培われると思うのです。

紙の新聞、もっと購読者が増えるといいです、家庭で紙の新聞をとっているなら、子供たちが手に取ろうと思える環境であればいいなぁ、と思います。私たちに寄り添った、社会の姿が見えるはず。

そのことは、社会に大きなうねりをもたらす力を持ち、世界中とつながっていける媒体であるネットとの付き合い方にも良い変化与えていくように思います。

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