(雑文)2冊の論語と2人の訳者

原文を訳す訳者の違いについて、しみじみ感じたことが、実はこれまであまりありませんでした。

ロンドン市民図書館の入り口

モンゴメリなら村岡花子さんの訳でしょ、と語ることがたとえあっても、違う訳者だったからと言って、その話に対して全く異なる印象を持ったことがなかったからです。訳というのは原文があって初めて存在するもので、それは原文の意味を理解するためのものであって、なるほど言葉選びに、美しさや技法はあるものの、わかりやすさや好みの問題だろうと感じていました。

そういうこともあって、同じ本を訳者の訳を読み比べるために読むということもあまりなかったのですが、この度、大きな衝撃をもってそれを感じたので、引き続き覚書機として記録することにいたしました。

中国古典音楽(すなわち和楽の始祖でもある音楽)の最初の教科書は論語である、という中世楽典解説本にあった一文から読み始めた論語ですが、今日迄に思わぬ発見がいくつかあったのです。

一冊目を読み終わったころ、その本から、古代から連綿と続く人々の素朴な生活の風景が眼前に広がった気がして嬉しくなり、新年の頃だったので海外にいる中国人の友人に、新年のあいさつとともに論語の話を振りました。そうしたところ、彼女から、論語は文化大革命で禁書であった、ということで、彼女は青春時代あるいは義務教育時代を通して手に取ることがかなわず、その後海外で職を得たこともあって、読んだことがないし、あまり語れることもなく、読むなら論語より聖書の方がはるかに価値があると思うわ(クリスチャンの友人)、というような返事をもらったのでした。

その方は生粋の中国の知識人で、中国にいたころは若くして大学の准教授でしたが、海外にあこがれてヨーロッパに移住し、契約研究員として大変苦労したけれどもそれでもヨーロッパが大好きで、今でも海外に暮らし続けている親切で温かいそろそろ老年に差し掛かる女性の方です。ただ、私と出会った頃も、かなりの頻度で中国に帰省している方でしたので、論語の話はむしろ彼女の祖国をほめるつもりで伝えたのでしたが、そもそも孔子という人をあまり高く評価していない様子で、日本では知られた中国の賢人であるだけにびっくりしたのでした。そのころ、米寿を迎えた知人(日本人)が「論語を読むなら高橋源一郎さんの訳本がいいよ」と言ってくださったので、私自身思うところもあり、2冊目の論語読破と相成りました。

続けて読んだこともあって、その訳し方の違いが、論語いう本の2面性(?)を浮き彫りにしたのでしょうか。その2冊目の訳本に私はちっとも共感できず、しかしなぜ文化大革命で禁書になったかはよく分かったのでした。

一冊目論語:孔子 著、斉藤孝 訳

2冊目論語:高橋源一郎 著

というのが図書館にあった案内表記です。この案内表記の違いにもあるように、2冊目の論語は、訳本でありながら著者がおり、その著者の意見や考えが、はっきりと述べられた本でした。

高橋源一郎氏は、政治にかなりフォーカスして論語を訳されています。「知者」のことを「インテリ」と訳されているのには、苦笑いを抑えることができませんでした。これが特に印象的だったのは、斉藤孝氏の論語を読んでいた時に「知者」という存在に対して、かつて長い時を過ごした研究機関の友人たちを思い起こしていたからです。人として未熟なところはあって、仁者に遠く及ばないにしても、好奇心と知的要求、そしてそれなりに大志を抱いて研究に従事している人は、願うより少なくとも、思うより多いもので、それなりに一定数はいるものなのです。彼らは「知者」という言葉にふさわしい尊敬できる人たちでした。「インテリ」という言葉から、同じ美しさを感じることはさすがに難しく、その美しさのかけらもない「インテリ」の姿には「仁者」と並べるべきもなく、向上の志も感じられず、がっかりせざるを得ませんでした。

斉藤孝氏の論語はわりと実直に訳されていると私は感じていて、私自身が政治や中国の古代宮廷行事に聡いわけではないこともあり、その言い回しはただ美しく、行間から、学校の師弟のまなざし、あるいは家長性における家族のぬくもり、市政に寄り添った行政の見方、というようなものが感じられ、物売りの掛け声や、馬車の音、あるいはシンとした学堂の空気、時には椅子に御して不安げに、またはにやにやしながらこちらを見つめる着飾った特権階級のおじさんの姿が、本から浮かび上がってくるようでした。

一方、高橋源一郎氏の論語は、現代社会に照らし合わせて、彼が今の時代を不甲斐なく感じる憤りに満ちていました。なるほど、確かに孔子は政治論、君主論の先生なのだな、そういう教えなのだな、と理解が深まった一方で、訳を読んでしまうと原文の言葉も美しいと感じることはなく、論語に対して感心する、という気持ちが全く芽生えませんでした。これは私という人間が、現代の社会に不安を感じながら取り立てて政治に感心することも少なく生きていることも多分多大に関係しています。高橋源一郎さん自身は、訳本の端々に、孔子を大絶賛する言葉を書き留めてはいるのです。しかし、孔子という古代の学者に対する愛情が、政治的ものの見方に偏っているような、あるいは論語は実際にはそういう本なのかもしれないのですが、一歩ではなく10歩くらい後ろに下がってしまったのでした。間違いなく、わかりやすい訳ではあったのですけれど。。。

同じ原文を持つ本を、一人の訳者の時には美しいと感じ、もう一人の訳者の時には、なんというか、遠巻きに眺めよう、と感じる、というのはかなりの違いと思いませんか。

私がこれまで違う訳者で、同じ話を読んだと言ったら、世界的に有名な子供の寓話、あるいは赤毛のアンやジェーンエアみたいな古典的少年少女の文学本くらいまでだったので、全く気が付かなかったのですが、「解釈できる本」というのは、かなり訳者によって色が付くんじゃないでしょうか…。

著者を「孔子」のまま残した斉藤孝氏の訳本は、色を付けない、という氏の姿勢を感じますが、それもまた氏の色といえます。高橋源一郎氏は、著者を「孔子」とするわけにはいかないと図書館の人が判断されるにふさわしい、としみじみ感じた、高橋氏の色がカラフルな色の付き具合ではありましたが。。。いずれにしても、注釈なしには、やはり理解することは難しいのが古典です。両方の本に注釈はあるのです。

「解釈できる本」かぁ、と思って、少し考えてみました。それこそ友人が勧めてくれた、「聖書」という本も、口伝であり、訳本であり、解釈者が多くいるということが全く同じ状況だなぁ、と、思わぬ目線を向けるようになった今日この頃です。

先生(孔子、老子、キリスト、モハンマド、釈迦などなど)という人の言葉を後世の人が書き留めるとき、書き留めた人が、その人の共感や感銘を排除して言葉を残すことは自然に考えて難しく、その言葉をどのように感じたか、どのように受け止めたか、その色が排除されているはずがない、というのが「解釈できる本」の定めなのですねぇ、と思いまして。。。

それで経典や聖書には研究者や求道者が常にいるのですね。理解していたつもりでしたが、浅い理解だったようです。2冊の論語から、改めて伝言ゲームの奥深さを感じているのでした。

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