社会観念
先日、今は40をいくつか超えた未婚のお嬢さんとお茶をする機会がありました。
そのお嬢さんは、最近、益田ミリさんのエッセイを何冊も読んだそうで、本の話をたくさんしてくれました。
色々な話をしてくれましたが、今日は結婚の話をここには書いてみようかな、と思いました。
益田ミリさんは彼女より少し年代が上ですが、エッセイであれば彼女が若いころに書かれた話もあるわけで、現在は益田ミリさんが35歳くらいの頃のエッセイを読んでいるそう。
「その中にね、ミオさん、”何で結婚しないの?とよく聞かれるが、聞く人は聞いてどうするんだろう”、と書かれているのがあってね、私、本当にそう、と思ってしまいましたよ」と笑っていました。
聞いてどうする、ということを聞かれることは時々ありますね。知りたいと思うのから聞くのでしょうが、女性の場合は自分の安心につなげるためだけに、聞かれた相手には脈絡のない形で質問をすることは割とあります。「ふーん」というだけで、情報を悪用するわけでも、必要なわけでもないけど、ともかく、自分と違う選択をした人になぜそうなのか聞いてみる、というときはそういうことが多いです。そしてついつい、自分の選択(この場合は結婚)を擁護する発言をして、仲がこじれるとか、ね。
昔は、結婚が当たり前だったのと、人との距離が近かったので、若いお嬢さんに私たち世代がそういうことを聞くときは、話のきっかけ作りにすぎず、大体は紹介したい人という目的が背後にありましたが、現代はそういうわけでもないんでしょう。
そんな彼女、やっぱり35歳くらいの頃、20代で結婚した女性の同僚に「選んでるでしょ?!」といきなり詰め寄られたことがあるそうで、そもそも恋バナも結婚相談もしたことないのに、そのように詰め寄られた背景も謎だけれども、内容そのものが、納得いかない思い出として残っているそうです。
「私に、選んでるでしょ、って言った彼女の旦那さんは素敵な人に見えたけど、そこにいたから結婚しただけで、心に響いたり愛して認め合った伴侶じゃないのかな?それとも自分は選ぶのが当然だけど、私には、その辺の好きでもなんでもない人に、そもそも結婚願望もないのに、結婚を迫って結婚すべきだって、言ってるのかな?」
旦那さんを選ぶときは、「その辺にいて、自分のこと嫌がらなかったから」ってだけで、感謝しなければならず、それが身の程を知ることなのだ、ということですよね、と困惑半分、憤慨半分。
なるほど、35歳の頃は、普通に怒っていたそう。よく伝わってきました。私も10年くらいたって、いろいろな経験を経た今でもそういう顔をしてしまう気持ちだったのね、とよくわかってしまうくらい。
確かに「選んでるから結婚できない」、というのは時々聞くセオリーです。だいたい、それは結婚を「目的」とした若い女性に対しての批判で、男性に「ランクあるいは基準を設けて振り分けている」、という話でしたので、記事を執筆する男性記者としてはそういう書き方になるんでしょう。
片側だけでなく両者が値踏みしている場なのですから、平等な分いいと思いますが、昔は値踏みする側だけに立っていればよかった男性としては、不快。つまり、値踏みされるのは男女とも不快だというだけのことでしょう。
でもその男性記者だって、自分の評価はそこそこ高いでしょうし、奥さんは自分だからこそ結婚したと思っているでしょうし、最悪結婚してやったとさえ思っているかもしれません。「その辺の誰でもよかった。愛もないし、条件としても素晴らしいと思ったことは一つもない。自分のこと、選んで選ばれるような人間だと思ってるの?」と、奥さんに言われるとは思ってもいないでしょう。愛する人に「選ばれた自分」ってちょっと誇らしいですしね。
というようなことをわーわー言っていて、そのあけっぴろげな様子におかしさを感じる一方で、なるほど、と思いました。彼女の場合、彼女にその発言をしたのは女性なので、社会固定観念の強さがうかがえます。
古き日本の社会固定観念の一つが結婚で、現代はだいぶん変わったと思っていましたが、それでも女性の社会的地位は低く、男女の賃金格差にも社会的地位にも、確かな差別はあるのです。「未婚を選べる」時代ではありますが、肩身が広いというほどではないんでしょう。
・昔は見合いが多く、添い遂げることが多いが、女性の我慢と不平等があった
・今は自分で相手を見つけ、比較的立場が平等で、結婚して別れるのも比較的自由
その分、添い遂げるのは、昔より大変なんでしょう。社会的圧力が強い古い地域ほど、離婚率は少ないのです。
とはいえ、お見合いで結婚しても、ともに長い時間を過ごして晩年を迎えれば、その相手は人生の戦友です。それこそ私の父が、母のことを戦友だと呼んでいて、とても感銘を受けました。妻に対する尊敬と信頼を感じました。(二人は一応恋愛結婚の金婚カップルでした)
自由恋愛の時代は、別れることが簡単な分、かえって戦友を得ることは難しくなったのでしょう。
けれど物語にあるように、冒険を共にする戦友は、実際は今も昔もずっと同じ人であるとは限りません。
結婚せずに、お互いを認め合って一緒を共に過ごす人もいる。自分一人の人生をその時々で誰かと共有しながら過ごしていく人もいる。
死ぬ前に戦い切ったと思える人生を送れる人はそうそういないでしょう。戦友がいれば、託す人のいる安心感はあるでしょうし、戦友を見送った後であれば、生の中での自身の役目を手放すことへの抵抗はちょっとくらいは少なく感じられるのかもしれません。
今、社会情勢には後退への不安が色濃くありますが、それでも、一緒にいることでより不幸を感じる人と、自分じゃない誰かの希望に従って結婚することには意味がないと言い切れる時代です。(女性や子供や老人のような)社会的力の弱かった者たちにも、(動物や自然のような)人間社会の取り決めに意見を言えない命たちにも、権利が認められ、互いを尊重し思い合える、そういう社会を人は目指してきて、そして、少なくとも人生の戦友を得る方法は、社会的にだって十分に結婚以外にもあるといえる時代になったと感じています。
若くも老いてもいない中年の人は、人生の一番難しい過渡期を生きているそうです。大変でしょう、それでも彼ら、彼女らが人間社会の現在進行形の主動力。
お嬢さんとのお茶会は楽しかったです。
どこまでもあなたらしく、明日も明後日も、あなたが笑って日々を過ごしていきますように。