言霊と現代コミュニケーション

2020年新年の宇治神社境内で

世界遺産である宇治上神社では見返り兎がご祭神の守護をしています。

見返り兎は、子供の守護神です。なぜか知っていますか?

なんて、もったいぶった問いをするようになっては、もう年を隠せませんね。しわしわの手をついて、お詫び申し上げます。

見返り兎は子供の守護神なんです。何故って、遅れる子供が誰一人いないよう、いつも後ろを振り返って、遅れる子供を待ちながら、道案内をしてくれるからです。

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2020年の年の瀬はコロナのために誰とも会わない年の瀬となりました。

友達が気にして電話をくれました。遠くにいても、誰かが覚えていてくれているというのは、心強いものです。寒波のやってきた寒い年の瀬ですが、家の中にいれば暖かで、母が教えてくれた年末年始のお料理を、やや簡略化して作っていると、それなりに忙しく過ぎていきます。

晩は静かです。

私の母は明治生まれで、幼少時に、脇差を差した武士と通りで普通にすれ違うような時代の最後を見届けました。多感な少女の頃は、女性教育の走りの恩恵を受けて、インターナショナルスクールで外国人宣教師にフランス語を学び、感化されてクリスチャンになり、大戦が勃発したときは、手に入らないコメの代わりにパンを焼いてお弁当に持たせてくれたような母でした。青春の時は、大正ロマンを謳歌したモダンガール(通称 モガ)だった母が、戦争の中をクリスチャンとしてどのような気持ちで生きてきたか、多くを語り合うことができないうちに、母はその強い姿を崩すことなくこの世を去りました。

母世代の人は「やせ我慢」という言葉を美しく実践できるまれな女性たちだったと思います。学生だった頃、いつもニコニコして、若者に心のこもった贈り物や差し入れを頻繁にしてくれる、優雅で芯のある年配の女性が研究室にいました。やってもらうばかりだった若者たちは、私も含めてみんな彼女が大好きでした。でもその女性が、ある時「やせ我慢って大事なのよ、今の日本には失われつつある言葉だと思うの。あなた方も頑張るのよ」、といったその口調と瞳の強さを、今でもはっきり覚えています。「あげたいのよ。あげることが好きなの」と言ってくれたその言葉を、そのまんま受け止めるのは、子供の内は良い関係を築くこともあるけれど、やはりいびつだったと、あまりに想像力がなかったと、27,28を超えたころにようやくわかるようになりました。

先日、ちょうど30くらいの若いお嬢さんと登山談義をしていて、びっくりしました。育ちの良さがにじみ出た知的な彼女は登山部に所属しているそうですが、今はグループで登山に行っても、後ろを振りかえって他者をサポートする人はいないそうです。サポートが必要な人は登山に参加していない(もしくは参加すべきでない)、という前提のようです。私は人生の先達から、前を行く人は道が悪い、滑りやすいなどの情報を後ろの人に伝え、登山中にすれ違う人は遭難の時には助け合う同志としてあいさつを交わし、遅れる人に注意を払いながら山頂を望むのだと教わり、教育の現場でのリーダーシップにこれを重ねて生きてきたので、うっかり慄いてしまいました。大人同士なのだから、お互いにしっかり立つのが前提になるのはわかります。しかし、登山という場面で、これは甘え、と切り捨てるようなことなのかと、こんな世の中でやせ我慢していたら、本当にみじめになってしまうのではないかと、この言葉が力を失っていくことを残念に思う一方で、言葉が忘れられていく中でやせ我慢を実践する人が減ることを、良いことかもしれないと、はじめて思いました。今の若い世代の人たちは、大切なものが明確で、通りすがりの老人にも正しいと思うことや幸せだと思うことを助言を求めなくても助言してくるくらいの関心はあるようですが、自分の言葉に誰かが左右されて不幸になったら、それはその人の判断と責任と割り切っているところがあるようです。間違いではないのだけれど、ご自分が是と信じて主張した了見に対しての結果に対するそれは、その発言の重さを信じた、その人にとって存在の軽い私のようなものには残酷に思われ、現代の、言葉の持つ重みの軽さを悲しく思いました。

現代は、私自身の反省も含めて、いうなれば想像力が不足しているのではないかしら。

生きることは、他者の人生と交差することです。すれ違う人たちの中で私はただのわき役の登場人物ですが、垣間見える人生にちゃんと登場して、丁寧に交流できるとき、その人の存在は私の中で美しいものになりました。だから、私は人生という旅路を通してぜいたくな時間を生きてきたと思えます。地道で気の重い道のりばかりだったけれど、眼を閉じれば浮かぶ風景、浮かぶ人々が、私にそう思わせてくれるのです。感謝の気持ちを伝えられていない人ばかりだけれど、とても大切に想い続けています。

共感することも共感できないことあるのは当たり前です。だからこそ世界は多様な光を放っているのですもの。

どのように他者と交流を保つか。

今後ますます、画像と言葉だけになっていくのでしょう?

どうかあなたの言葉には、貴方が何者であっても、相手の方があなたを大切うだけ、その方には重さと威厳があることを心に留めてください。そして、その方のためにも、自分の言葉の軽さを簡単に決めてしまわないようにしてあげてください。

「ソーシャル ディスタンス」と「自粛」という言葉が取りこぼすものに思いをはせた大晦日の晩となりました。

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私は古臭くて、頑固で、人から敬遠されてしまいがちです。それは悲しいのです。でも、せめて自分に見切りをつけずに済むように、他者に誠実であれるように、頑張ってみようと生きてきました。さっぱり死ぬより、しぶとく生きる方が、つらくて大変でやりがいがあると思うから。

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