(film)ラスト ディール 美術商と名前を失くした肖像
紹介したいカフェはいっぱいありますが、カフェ紹介に小休止。
名画に価格が付くとき、ということを考える映画を見ました。フィンランドの映画です。今晩はこの映画の話をしたく思います。
One last deal, ラスト ディール 美術商と名前を失くした肖像
話は、美術商を営む偏屈な祖父とその娘と孫の話。
いえ、「主役は老いた男です」、ということも可能と思える内容なのですが、この人が、終始「祖父」の影をまとっているように私には感じました。なので、あえて祖父と娘と孫、と書かせていただきます。
孫と祖父は、実に10年ぶりくらいに出会い、祖父にとっても孫にとっても、お互いは身近な他人より知らない人です。なので、孫は、祖父を祖父と思う一方で、一人の偏屈な老人として接します。しかし、その厳しい専門知識と商売に対する姿勢は論理的でわかりやすく、素直に高く評価します。そしてその人が祖父であることを、誇らしく思うようになっていくのが、伝わってくる映画です。
祖父は、絵画を心から愛する非常に優れた審美眼と知識を持った、立派な美術商なのです。
孫と一緒に、職業訓練を受けさせていただきました。私は絵が好きで、美術館に行くのが好きですが、「絵を評価する」ということには胡散臭い気持ちを持っていました。名画を生むのに高い技術は必要かも知れませんが、必要なのは技術だけではないのが芸術ですもの。芸術家が見据えるものを、その人でない人がどのように見て、金銭的に評価しているのか、気にしたことはありましたが、価格を付けるという行為がその芸術への冒涜のようにも感じて反発の気持ちもあったのです。この映画は、そういうもやもやを、払しょくしてくれました。
映画の中では、名画がオークションにかけられ、価格で価値を測られてしまう場面が何度も出てきます。けれど、その絵が多くの人を魅了する名画として判断される理由、価格の正当性の説明は、非常にもっともで、一聞の価値があります。彼らとその絵を見ていると、人がどこにどのように価値を見出し、価格を付けたか、そこに冒涜やあさましい気持ちは一切ないことが本当によくわかりました。
それは、祖父が、評価に長けるから、説明上手だから、というだけの理由からではありません。
彼は、娘が大好きだった、そして亡き妻を思い出させる、価格という価値はない絵画も非常に大切にしている人です。
心から絵を愛し、芸術の意味を知っているのだと、感じることができる人だから、彼は師として優れており、孫も私もとても感心したのです。
もちろん資本主義社会なのですから、芸術にも値段が必要です。高い価格を付けることは、その絵を守ることにもつながります。でも守られる絵画と守られない絵画の境界はどこにあるんだろう、と思うと、ひどく混乱した気持になったものでした。彼らに導かれて、名画に価格が付くとき、ということについて、素直に考えることができました。
多くの人に名画を開放する美術館の重要性について、考えることもできました。美術館は、絵を守るだけでなく、その芸術を、私たちと惜しみなく分かち合ってくれる偉大な施設なのだなあ、改めて思うことができました。
それから、この映画が、美しくを芸術を彩っている理由がもう一つあります。
映画の中の芸術が、「人間」特に「家族」に息づいた芸術だからです。
不思議なことです。男がずっと夢を追い続けているように書かれているのに、「家族」が一人関わるだけで、その人は、祖父であり父であり夢を追う一人の男の3役を担い、あるいは、母であり娘であり傷ついた一人の女となります。一方、社会的には何の役割もなく、一番の弱者でもある16歳の少年は、孫であり、息子であるとはいえ、まだ何者でもなく、境界を超えることができるという点で、一番強い者でもありました。この子だから持っている強さでなくて、子供の時だけみんなが持っている強さを等しく持っている、力なき一人の子供として、彼は彼だけの役割を果たします。
この映画では父と娘がうまくいっていないことは一目瞭然ですが、実は息子と母がうまくいっている様子もありません。
親が一人の人間であることを認めることは、多くの場合「親は完全ではないんだ、親も間違えるんだ」ということを認めることとして語られますが、この映画では、娘さんは親が一人の人間であることをすでに受け入れています。けれど、自分を顧みてくれなかったと、苦しんでいます。子供にとっては、自分を見て支えてくれる、自分を見捨てない親が素敵なのであって、そうでありさえすれば、親が一人の人間として理不尽なことや不完全なことは、特に気にならないことなのかもしれないです。特に大人になってからは。
親子関係はそういう意味で、子供の成長に伴って、いつまでも形を変え続けるとても難しい関係だと思います。
話は、祖父を中心に、娘と孫がくるくるとアクセントをつけて進んでいきます。祖父は、夢を追っていて、専門知識もあって、一本筋も通す人で、偏屈かもしれませんが、冷たかったりいじわるだったりするわけではありません。亡くなった奥さん(祖母)のことを心から愛していて、思い出の品も捨てずに、ずっと大事にしています。けれど、娘のことは、おそらく結婚して家を出た時点で、一線を引いて接してきたのであろう、という様子で、話は進みます。
娘さんの旦那さんが良い人で、二人が支えあっていれば、そうした姿勢はおそらく歓迎されたのではないかと思いますが、残念ながら二人は離婚していて、娘さんは助けが必要だった時に父親に助けを求めることはできず、その苦境に父親が気が付かなかったこと、自身に無関心でいたことに傷ついています。
お話が進むうちにわかりますが、二人とも甘えることを知らない、不器用なところがそっくりな親子です。
孫も、映画の中で決して母や祖父に甘えません。3人は、「甘えない」という点で、実にひどく家族なのです。
甘えないうえ潔い、なのにひどく愛情深い、3人の世代と性別の違う不器用な人間のお話でもあることが、この映画を美しく彩っていると思いました。
孫が祖父と母のほころびを結び直し、祖父が娘と孫のほころびを手直しし、その祖父と孫の出会いをセットするのが娘なのです。
その出来事を見つめる一枚の絵画が、聖画であることも心憎い。
絵画につく価格は根拠のないものだと常々思っていましたが、芸術というのは本当に金銭を超えたところにあるものなんだと、感じることができました。
絵画だけでなく、映画という芸術の力を感じる映画でした。
歴史的に芸術がどのように現代まで受け継がれたが、いろいろ考えたら簡単に言えることは一つもないですが、それでも一般市民としては、名画はできるだけ美術館に所有して、広く公開して欲しい…。