(雑文)釈然としない知恵
服装に頓着しない家で育ちました。
母はとてもおしゃれで、父は全く頓着せず、お互いはお互いの服装には頓着せず、もちろん子供の服装にも頓着しませんでした。
私は父に似ました。母がおしゃれだったので、全く興味がないわけではなくおしゃれをした人を見るのは大好きでしたが、自身はTPOに合わせて服を替えたりする意欲もなかったため、山も街中も同じ格好でうろうろした結果、街中で不必要に重装備だったり、山で不十分に軽装だったり、20代の後半までに学習を重ね、基本的に実用性と便利さを重視し、汚れても全く問題のない服ばかり着ながら年を取りました。
研究者だった時に、冬にジャケットを着たまま実験して硝酸でお腹のあたりだけ変色させたジャケットを、その後30年、洗濯して箪笥の上にあればそれを着てどこへでも出かけ続けたりとか、そんな感じです。そうそう、ジャケットは糸が溶けたので、そこは自分で縫って直していて、そのために愛着もあったりして。
さて、後期高齢者の仲間入りをして、というよりは、そろそろ中年の頃から少しずつ学んだことですが、街中で暮らすおばちゃんやおばあちゃんはある程度身ぎれいにしているってことがかなり、かーなーり、生きやすさを左右するような気がします。学生や若者って、どんな格好をしていても、だから誰かに態度を変えられるとかは滅多にないのです。ところが、ある程度年を取ると、カフェのウエイトレスさん、ウエイターさんとか店員さんとか、美術館の受付嬢とか、ホテルのロビーの方とか、みな様、もちろんプロフェッショナルに丁寧なんですが、服装を一つ、ブルジョワジーの階層の皆さんの真似をちょこっとしておくだけで、笑顔とか、もう一つ親切なサービスとか、そういうものが追加されるんです。
不思議と思いませんか、だって、その方々とはいずれにしても一期一会。多少小ぎれいにしていようとしていまいと、私は同じ料金を払ってそのサービスを受けるのです。
あぁ不思議。
しかも価値観としては、実際は自身が行ったと自覚したら空しい行為ですし、たぶん私が遭遇した場合でも行為者は無意識だと思います。我々は良識の教育を受けており、人を見かけで判断するのがいかに愚かしいか知っているはずです。
私の父は、同じズボンを数着持っていて、同じ人に二日続けて会うときに、最初の日は継ぎのあるズボンで、翌日は同じズボンでも継ぎのないズボンをはいて行ってみて、相手が気が付いたか気がつかなかったか家に帰って報告しては、笑う父でした。
ズボンの継ぎのあった部分を見て、「あれ?」という顔をする人はやっぱりいるそうです。ふふふ、書いていて思い出しましたが、父という人はパイプを吸う人で、その灰や山仕事で、良く服に穴をあける人で、母がせっせと継ぎを充てていたものでしたね。
世界銀行のCEOが、日本に来て靴を脱いだら靴下に穴が開いていたりね。日本では、主婦がこれをテレビで見て笑った時代もあるのですよ。
現代は比較的服装も思想も自由な、あるいは自由であることを是とできる時代ですが、時代が苦しくなればなるほど、力の象徴として権力者はより華美になる傾向もありますし、髪形、服装、アクセサリー、これらが投影してきた社会や文化には身震いするものも心躍るものもあるように思います。
つまり、社会が服装に気を配るのはある程度普通で、父や私がやや変わり者なのでしょう。
反省することもあります。親が買ってくれた高級スーツもまだ持ってますし、心配した世話好きな友人が素敵な服を送ってくれたり、自分で魔が射して買ったコートにもワンピースにもなる久留米絣など、クローゼットの中に架かっているのを見ては、持っていることは嬉しいしどこかに来て行きたいものだ、と思いながら、どこに着て行っていいかわからず、理由なく着るのはもったいなく自意識過剰なような気がして気恥ずかしく、結局、あまり着ませんでした。着ない洋服って可哀そうですよね。
たまーにちょっと知恵を使って小奇麗にしてみて、そのちょっとだけで、接してくれる人の笑顔がこんなに変わるのだったら、理由なんかなくても、誰にも会わなくても、無駄におしゃれして出かけるのも悪くなかったかもなぁ、と今となっては年不相応な気もするクローゼットの大事なお洋服たちを見るのでした。
逆にね、そういうお洋服を見ながら、今は浮浪者の方やホームレスの人には、昔よりもっと生きづらい時代なんじゃないかと思います。外観を自由に飾ることが是とできるようになってきたはずの時代。でもなんだか、決して開かない扉もあり、そのことが、みなが貧しかったころにはなかった静かな残酷さを感じさせます。
私の母は終生着物しか着ない人でした。水仕事の多い主婦たちの普段着の着物は、袖がとても短くて、仕立て直して今の着物にすることは難しいですが、斬新でかっこいい生地が多いです。普段着であった分、今の「和装」みたいにTPOや規則にうるさかった記憶もありません。
老いてからは割と地味な色の着物を着ていましたが、多くの日本人女性が洋装になっても和装を貫いた母は、潔くかっこよかったです。海外旅行に行くときも着物だったんですよ。飛行機の中でも、グアムの海岸でも、イスラエルの嘆きの壁でも着物です。カッコいいでしょう。
着物というのは、どんな年代の女性であっても、着ている人にきちんとした印象を与える日本で生まれた日本人女性のための服だと思います。
私は一人で着られないので、やや残念です。これまた、持ってるだけ。服装に頓着しないといいながら、おしゃれをすることは気が引けた、というのは、なんでしょうかねぇ。おしゃれな人を見るのは大好きなのに。
捨てられなかったクローゼットの想い出の洋服たち。
これだけ好きな服装ができるようになった時代ですから、おばあちゃんが20代の時の裏地の真っ赤なスーツを着て、パフェを食べにいってもいいかしら…。
ちょっと行き過ぎた知恵になりそうかしらねぇ…。