氷河を歩く

人類が不可能に見えることを可能にする道具を生み出してきたこと。

パリの職業博物館には横には立派な教会があって、人類は発展が農業と産業によってもたらされたという、女神の壁画が描かれています。ライト兄弟の飛行機の模型や、自転に従って揺れる振り子のおいてある広い空間を見下ろす女神の姿には、厳粛な説得力を感じました。

技術が現代社会にもたらしたものには良いものも悪いものもあるけれど、その技術が生まれるまでの挑戦や創造性を尊いを思っています。当時、電子顕微鏡やICチップを身近に見て、使うこともある職場にいたのですけれど、「人類が不可能に見えることを可能にする道具を生み出してきたこと」、不思議にこのことを身をもって実感したのはもっと素朴な「道具」を通してでした。

アイスランドを旅していた時に、氷河を歩く機会がありました。

冬のアイスランドでしたが、その時は不思議に8度や9度という暖冬の日々が続いていました。雪の代わりに雨が降り、嵐が出たり霧が出たり、自然観察のツアーへ向かう道は危険で通れず、道中ホテルに缶詰めになることの多い旅でした。とはいえ、そもそも集落が大自然の中にちんまり形成されているかのようなアイスランドのこと、郊外に出ればそれだけで眼前に広がる雄大な自然に圧倒される、そういう国でした。

靴で氷の上を歩いたことがない方もいるでしょうか。雪や地面が近い薄い氷上は、体重をうまく傾けることで歩くことができたりもしますが、基本的にびっくりするくらい歩けない、これが氷上ウォークです。アイススケートにスケート靴がなぜ必要なのか、と自問したくなるくらいにつるつる滑る。歩けません。暖かな冬でしたから、アイスランドも人が歩くようなところには、雪や氷はあまり多くはなかったのですが、道の隅などにひょっこり現れる凍結箇所をうっかり歩くと、油断していた足元がヒュ~、と滑ってびっくりしました。そういうところはどんなに頑張って足を動かしても、つるつる滑って全く前に進まないんです。私は登山用のトレッキングシューズを履いていましたが、スニーカーと変わらないな、と思ったことを覚えています。

氷河を歩くときはもちろんアイゼンを借りました。

金属製のスパイクのついたアイゼンを履いていると、氷に食い込んでいるようでもないのに、かなりの傾斜になっている氷の上も、心配なく、まるで地面の上のように歩けます。雨の中、多くはありませんでしたが、何グループかが遠方に歩いているのも見えました。

あんまり普通に歩けるのでその効果に対する自覚はなかったのですが、氷を降りきる前にアイゼンを外すのに適した場所に出て、試しにアイゼンを外してみたところ、全然歩けませんでした。うっすら奥の方に土が透ける場所もありましたが、これは大きな氷の塊なのだ、としみじみと感じたのでした。その後、氷を降りきるためにまた靴にアイゼンを装着すると、やっぱり全然滑らない。スパイクなのだから当たり前と言えば当たり前なのかもしれませんが、その道具の力に心から感心したのでした。かんじきを履いた時も驚きましたが、南で育った私にとって、雪や氷と付き合うための道具はまるで魔法のようです。

道具のすばらしさを知った氷河ウォーク。

マイナス20度を期待して出かけたアイスランドは、雨も降っていて、体感気温さえ寒くはなかったのですが、帰国してふと気が付いたら、爪の一部が死んでいて、半年くらいずっと青黒いところが残っていました。暖冬で、雨も降り、ぽたぽたを水をたらしつつも、そこは4900万年前からある氷。あぁ、氷の上はやはり冷たかったのだな、と思ったのでした。それはまた、圧巻な自然の姿でもあります。

旅でも感じた温暖化、私たちは今、自然破壊、コロナなど思いがけない多くの環境問題に直面しています。こうした問題に対して、さまざまな新しい技術で対抗しようしている私たち。なのに、そこからさらに新たに壊れていくように見える自然。文明の中にいれば、まるで静かに壊れていっているようだけれど、実際には大地が揺れ、氷が解け、氷河が崩れ、陸が飲まれる崩壊なのです。

技術開発には利害関係が絡み、人の欲と折り合いをつけたうえでしか進まない。こんな状態になってもそう。

技術と自然のお付き合いは、本当は最初はこういうふうな小さな工夫から始まったのだと、そのことにふと気が付いて、人類の果てのない欲望と、そして同時に向上心に、我々がどうして、どのようにして創り出されてこの世にいるのか、哲学のような宗教のような問いが胸に浮かんだのでした。

道具の起源は、自然と共に生きていくためでした。新しく生まれてくる技術が、共に生きていくためのものであるか、私たちは常に意識を払うべきであるのだと、氷河が教えてくれたように思いました。

私たちは間に合うでしょうか。間に合うと言い続けなければならないにしてもです。私が、あなたがあきらめた時が、希望が失われる時だから。

だけど、本当はこんなことを悲しく書かなければならないほど、難しいことではないはずなのです。

私たちはただ、初心に返ればいいだけなのです。「共に生きていくため」の技術や道具の使い方を思い出せばいいだけ。科学技術は、最初から最後まで地球と共に生きていくための天から与えられた道具にすぎず、使い手が正しく使うことで初めてその真価を発揮する。

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