(雑文)謙遜の文化

中の子の旅路で、こんなことがあった。

旅路は続く。
野原から森に差し掛かったころ、中の子には、いくつもの日の入りをともに眺めた旅の道連れがいた。
きれいな声を持つ小さな小鳥のピー子さん

ピー子さんと話すのは楽しい。
ピー子さんは声がきれいなだけでなく話も面白い。中の子はたくさん笑う。
ピー子さんは親しみやすいだけでなく、非常に頭もいい。中の子はたくさん学ぶ。
朝、ピー子さんは美しい声で優しい歌を歌う。中の子はうっとり聞いている

ある時中の子は、通りすがりのおばあさんの荷物をもって家まで届けてあげた
あばあさんはいっぱい喜んでくれて中の子を褒めてくれる
いえいえ、中の子は照れてしまう。そんなことはないです、と一生懸命いう。
頭のどこかに、「いえいえこの子は本当にまだまだで…」というお父様の姿がフラッシュする
「人の前でだけですよ」というお母様の姿がフラッシュする
おばあさんと中の子を見ていたピー子さんが涼しい声で言った
そうなんです、自慢の友達なんです
ピー子さん、僕にとっても君は自慢の友達だ


ある時通りすがりの人がピー子さんの歌を褒めてくれる。
中の子は自分のことのようにうれしくなる
思わず声を上げる
「そうでしょう、ふふ。」
通りすがりの人はにこにこしている。
中の子はハッとする。ピー子さんは自分じゃないのに、まるで自分のことのように謙遜した
「でもピー子さんは朝起きるのが苦手で…」
そのとき
「いえいえこの子は本当にまだまだで…」というお父様の姿がフラッシュする
「人の前でだけですよ」というお母様の姿がフラッシュする
ピー子さんは悲しそうに中の子を見ている
ピー子さん、僕は今君に何をしただろう


雲が流れ、月は登る。二人は変わらず仲良く歩き続けた
季節が変わる時、ピー子さんはいつもの優しい声で言った
「そろそろ北へ行かなくちゃ、またね」
中の子は寂しくなる。中の子は、ピー子さんの「またね」を信じることができない

風が吹く
その年最初の木枯らしだ。


日本人は「謙遜」を文化として持っている、とは時々言われることだ。

親は子が褒められると、その子の前でしきりに謙遜する。

それはほとんど反射反応だ。

その子がうぬぼれないように、とかいくつかの理由のもと、これは概して良いように言われる。でもその子を褒めた人は親が喜んで肯定しても、ほほえましいと笑うだけだろう。

子供はいつも親に自慢に思ってほしいと願っている

威張りくさるんじゃない、過剰に自信をアピールするのとも別だ。

だが、謙遜とは、なんだろう。

正しい謙遜とは。

文化として誇れるはずの謙遜は、決して反射反応ではない。

反射反応ではない素直な謙遜を、実行していきたい

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