(雑文)子供の本あるいは子どもと本

本にはいろいろなジャンルがありますが、私が一番だと思うのは子供の本です。

これまで見た中で一番美しい図書館(フランス)

小さいころ、父親は忙しく、子供が寝てから帰宅し、あるいは学校(幼稚園)にいってから起床していたので、週末以外はあまり会わないのですが、家にいる晩は寝る前にたくさんのお話をしてくれました。

創作もあれば、本の読み聞かせもありました。5歳児にレ・ミゼラブルを読んで聞かせる父親でしたが、続きを読む際に前回どこで終わったか覚えてたのは必ず子供の方だったので、実際には「この本は何歳から~」というのは、実は大して大事じゃないのではないかと思ったりします。

ただ、年齢が変わると、同じお話から読み取るメッセージが変わります。

私は7歳の時にミヒャエルエンデの「果てしない物語」(兄の本でした)を読んだ時には、信じてくれる子供がいなければアトレイユが「嘘」に変わるという論理は分かりませんでした。

果てしない物語の前半で活躍するアトレイユは強く勇敢な少年で、その存在感と輝きは、何にも左右されないものに見えました。誰が信じようと疑おうと、勇敢な少年が「嘘」に変わるはずなんてありません。へんなの。

しかし12歳になって読んだときは、その知的な論理性にひどく感心しました。

それは子供に夢を語る大人の視線です。「サンタクロースがいる」というのは嘘だ、という視線を持つほど大きくなってようやく、果てしない物語にあるエンデの大人へのメッセージを見つけ、その論理に追いついたわけです。

そしてすっかり年老いた私が、今は7歳のころの感覚に戻っているのは、面白いことだと思いませんか。

赤子が幼子になり、幼子が少年・少女になり、やがて妙齢の男女になり、そして壮年を経て老年を迎えます。

その中で、自分という存在に疑念を持ち、惑い、やがて、誰かが何かを言ったりしたりするくらいでは左右されない「頑固」老人になるわけです。確固たる自分にゆるぎなく立ち、変われない自分にいら立つ大人に。

子供の本は、本当にすごいです。

作者は、その時の流れを胸に、少年・少女を物語という旅に誘うのです。

それは険しく愛に満ちた創作過程ではないでしょうか。

戦争という時を経て、本が多くある時代がくるまで少し時間がかかった世代ですが、我が家には母が子供のころに親しんだ本がたくさんありました。あの頃、世界文学全集などを自宅で持っていた家庭は、あまり多くはなかったのではないかと思います。私が本の虫になったのは、9歳のころに渡米して日本語に飢えた子供になったことが一つにはありますが、必要な時に必要なだけの本に囲まれていたことは間違いないでしょう。たくさんの本を家においてくれた両親には感謝です。

子供のころに好きだった本を思い返すとき、ただ一心に物語に没頭し、気が付くと日が暮れていた、あの穏やかな時間を思います。

リンドグレン、ケストナー、ロアルドダール、ミヒャエルエンデ、工藤直子、椋鳩十、佐藤さとる、、、世界に物語を生み出す力強さと、その世界の透き通った優しさ。

年を取って素晴らしいことの一つは、図書館には一人で行けるし、欲しい本は誰に聞かなくてもすぐ買える、ということでしょうか。

人生では何度絶望しても何度でも生まれ変われるし、希望はいつでもともにあります。ただ私たちは血と痛みから地上に生まれ、人生で再起する際にも、やはり血を吐くような苦しみと痛みを乗り越えなくてはいけません。

そんな中で、本、特に子供の本は、どこまでも優しく私たちを光りある方へ導く役割を果たしているように思います。

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