廃墟の亡霊
今から500年くらい前のこと。
北の海に浮かぶさほど大きくはない島々の一つに、古い城には大勢の人が暮らしていました。
城は海につながる小高い丘の上にあり、城の向こうは崖となり青い海が輝いています。崖下には大小さまざまな船があり、敵の来週にも備えていますが、そのころはもう半世紀は平和な時が続いていました。
お城と言っても、北の地の当時のお城は簡素です。土地のものと城主の子供たちは友に遊び、共に汗を流します。氏族と暮らす民たちが、魚を取り、狩りをして、小麦など北でも育つ作物を細々と育てて暮らしていました。食べ物がないときは分かち合い、戦いがあれば先頭に立ち、船に略奪に出ることもありました。強い仲間意識でつながれた心地よい暮らしでもあります。
かつてそうした生活を静かに見つめていた姫君がいました。
姫君は、先の戦いで城の多くのものが出払っていた時に、一人病気になって亡くなってしまってからも、ただ静かにそこにいました。
少女の父を含めた多くの若者がその戦いでは海で命を落としました。彼らの魂は、精霊に連れられて、海に抱かれて眠り続けています。
姫君は自身が死んだことがわかっていました。死に際のことで覚えているのは、熱で体中が痛かったことだけ。気が付いたら、いつも海を見ていた窓辺に一人座っていました。海に迎えられなかった理由は分かりませんが、死んでから、多くの妖精を見ることができるようになりました。
変わらないようで変わっていく城に満ちる笑い声を聞いて、戦いが終わったことに胸になでおろし、城にいる人を見て、自身が生きていた頃の彼らの家族の面影を見つけることもありました。その後の彼らについて想いを馳せます。子供たちが城に来ると、自身の幻影が、その子たちの中で一緒に遊んでいるように感じることもありました。けれどその顔は知らない顔。誰も彼女を見つけません。
変わらない日々。
少女には家族が帰ってこないことも分かっていました。彼女を愛してくれたけれど、強く前しか向かない家族は、死んでからもまっすぐに死者の国へ向かったことでしょう。日が沈み、日が昇るのに合わせて、眠って起きる所作を、生きていた頃のように続けました。
生きていた頃の記憶はすでにはるか遠く、それなのに胸を焦がすように何かを待っていました。あいまいな幻影のぼやけた光の中で笑う顔、響く笑い声、自分を呼ぶ声。
庭を見れば薬草園には多くの薬草が茂り、お日様が優しく降り注いでいます。姫君は聡明でしたが、当時の教育では、姫君に薬草の名前を教えてくれた人はおらず、名前は分かりませんでした。けれど、花を指さし、香りを伝えて、丁寧にこういうものを教えてくれた人がいました。背の高い人でした。字が読めたお姫様は、なかなか手に入らない書物をお土産にもらうと顔中を笑顔にして喜んだものです。そしてお礼に庭で竪琴を鳴らすのです。あまり外では遊べなかったけれど、優しい笑顔で外へ連れ出してくれて、わくわくさせてくれた人がいました。父かもしれない、母かもしれない、他の誰かかもしれない。
季節は廻り、香り立つ庭の芳香は空気に満ちて、優しい春を迎え、凍てつく冬を超え。
生きていた頃から、お姫様は一人でいることに慣れていました。友達や家族はそれぞれが大事を担う力強い人々で、お互いに共に歩んでいることを信頼し、後ろにいる人もやがて追いついてくる無邪気に信じる、強い苛烈の星々のような人々でした。姫君は皆を愛していましたが、その光は幼い姫君には強すぎて、ただ一人で風を感じて過ごすことが好きでした。時には姫君は海岸に出て、海の精霊たちとおしゃべりをしました。待っていた人は一人だけで、家族や友達は大体会いたければ毎日会えました。その人はもともと頻繁に彼女に会いに来れなかったので、長く会えなくても辛抱強く待ちました。その人が来るような気がするの。戦いでもう死んでいるかもしれないけれど、でも生きていれば来てくれると思うの。
精霊たちは、黒いつぶらな瞳で話を聴いてくれるのでした。
強い海風。ある日姫君は寂しそうに言いました。
戦いでもう死んでしまっと聞いたの。でも信じられない。まだ待っていていいと思うの。その人に連なる人に会わなくてはいけない気がするの。
大きな大戦が終わってから、病気で死ぬまでのとても短い間、少女は城主となった時期もありました。食べ物もなくつらい時期でした。皆彼女に丁寧で親切でしたが、そこに彼女が好きだった人たちは誰もいない気がしました。だから余計にいつまでも姫君はその人を待ちました。記憶はどんどんあいまいで、幻影のぼやけた光の中で笑う顔、響く笑い声、自分を呼ぶ声。それは幸せの記憶。
そうして待ち続けた気持ちが、病気になって死んでしまった後も、お姫様の胸に残りました。
城に生きる人が変わっていくのを見るのがつらく感じる日もありました。彼らが笑うのを嬉しく感じる日もありました。
草原を吹き渡る冷たいけれど優しい風。
木々から香り立つ健やかな香り。
夢のように美しい彼女の庭園。
時の流れの中でそうしたものが少しずつ失われていく。
ある日、海風の荒れ狂う晩に、姫君の幽霊は海の精霊に泣きながら言いました。私が死んでもう長い時が過ぎた気がする。私はいつもただ城にいただけで、誰かに何かを与えたわけでもなく、何をしてあげたこともない。私も死者の国へ行き、輪廻の輪に戻りたい。けれどここにいれば、誰かに会えるような気がしてできない。生きていた頃だって、身分がなければ、誰も私に会いに来なかったかもしれないのに。私は自分が愚かだったと思う。愚かだと思う。
海の精霊は、姫君のことが好きでした。何をするわけではないけれど、彼らをいつも愛情に満ちた瞳で見つめ、無邪気に笑いかけ続けてくれた幼い日から少女を知っているのです。少女が笑わなくなってどれほどの時が流れたでしょう。そして精霊にはわかっていました。姫君の記憶はすでに風化してしまって、自身の名さえ覚えていません。おそらく待ち人やそれに連なる誰かが来ても彼女にはもうすでにわからないだけでなく、このままでは姫君は悪霊になってしまうだろうということが。
精霊は姫君を優しく言いました。
輪廻の輪にお戻り。生まれ変わったらいまのことは覚えていないけれど、待ち人と必ず会えるようにしてあげる。
姫君は微笑みました。面影を追って生きるよりも、その方が前向きだわ。もう私を知る人はこの世には誰もいない。この気持ちはどこにも行けない。ここに一人いて何になるでしょう。磯の香りが満ちました。
記憶があってもなくても私は私。私は損なわれない。会えばわかると信じてみます。
それが300年ほど前のこと。
今はその城に住んでいる人は誰もいません。世の中は驚くほどに変わり、城は風化して、まるで忘れられた廃墟のよう。
けれどヒースの草原から見上げれば、その姿は遠目からは変わらない。城の近くまで行けば草原と海にはさまれた小高い丘にある石造りの堅牢な小さな城であることもわかるでしょう。城の右手には森が広がり、荒れた庭園には今でも薬草の残り香がある。精霊たちはときどき崖下に集まり、いなくなったお姫様の亡霊を想って歌を歌う。
波は歌声をどこまでも運ぶ。姫君の魂に届けるように。少女が笑っていることを祈って。