(雑文)ライバルについての考察
「だから私の永遠のライバルはレオナルド・ダ・ヴィンチなんだ」
大学の友人に大変風格のある人がいて、その人は多くの名言を残しました(注:存命)。個人的にこれに勝る名言はないと心ひそかに思って認定しているのが上記の一言。
その心は単に誕生日が一緒というだけの理由ですが、きっかけは些細なことで問題なく思います。彼のダ・ヴィンチをライバル認定するからには、むしろいろいろ理由があったらそれなりに複雑な事態であると思われますので、単純結構。素晴らしいライバルじゃぁないですか。
どこが素晴らしいかというと、その人自身がまさにダ・ヴィンチがライバルと言って、こちらがなるほど、と納得できるくらいの風格があるからです。
落ち着きあり、知識あり、創造性あり、思いやりあり。私の友人はすべからくみな素晴らしい人ですが、なんというか少し一線を期した人。
ついでに言うと、平均に当てはまらない奇抜さと不思議さを持つので、この人に似ている人、というのはなかなかいません。大学の友人ですから、付き合いも長いですが、失礼の限りを尽くす私に対して、礼を逸したことが一度もない。仙人みたい。
周りの人を悪く言うのも聞いたことがありません。しかもとってもストイック。甘いものを食べないとか、フォレストガンプ並みに走るとかいうのとは違いますが、自分に微塵も甘くない人です。いつか孫悟空のように金斗雲に乗っているのを見かけても多分全然驚かないと思います(突っ込むとは思いますけど)。
一緒に金斗雲には乗れないにしても、ふもとからいつでもニコニコ手を振れる友達でいたいと思う友人です。
ちなみに私の誕生日はミケランジェロと同じ。しかし私はミケランジェロを永遠のライバル認定は致しません。彼もまた天才ではありますが、金を積まれて、残酷で醜男(失礼)な金持ち男性を、本人の傑作のダビデ像とよく似た超イケメンの高潔の士とした彫刻として残しております。だからと言って悪いって話ではないですよ。生きるって大切で、大変ですもの、はかりにかけられたのはお金だけとは限りませんしね。性悪為政者をイケメンにした像を残すくらい、罪もありません。当時の政治は怖かったでしょうし。なんといいますか、私は単にこれまでだれかをライバル認定したことがないのです。その時々ではあるのかもしれないですが、少なくとも思い出せる範囲では。負けず嫌いと評されたこともありますが、気に入らないことはあったにしても負けたくないのは自分に対して、というのはきちんと実践していたと思います。やっかみは心理的負担が大きく、自分で自分のやっかみに耐えられない、という裏事情もございましたが、そもそもいろいろ考えるとめんどくさい。尊敬する人のことは素直に尊敬していました。人柄が嫌いでも、全体を眺めて尊敬すべきところが皆無、という人はなかなかいないもので、(私に)優しくない人は嫌い、という以外で誰かに反抗心を抱いたこともありません。
ライバルって、素直に尊敬できないけど、手が届きそうで届かない、という感じに自分より優れていて尊敬せざるを得ない人のことではないかしら。そういう点で、ダ・ヴインチをライバル認定できることはすごいし、生きるうえでも成長するうえでも心理的な助けになりそうです。素晴らしい人選ですね!
一方、ライバルがいなかったことが、今日までの年月にあった自身の成長が小さかった原因であるのかも。というわけで、自分への弁明を含めてもう少し考察してみます。
ライバルはいませんでしたが、その代わりに手の届かないものをいつも追いかけていたように思います。しかも自分が何を追いかけているのか、わからないまま。分からないので迷子になることも多く、気が付けばうろうろしている間に人生の終盤に来てしまっています。
あら、まぁ。
これはちょっと難しいです。自分探しとは違うんです。私は自分を理解はしていないにしても、見つけてはいるとは思います。でも探し物は見つからないので、正直ちょっと困っています。
永遠に見つからないから、今日まで歩いてこれたのか、見つからなければ、自分ががっかりしたまま死ぬことになるのか、気にしているところです。
こういう人は意外に多いのではないかと思っていて、けれど大人になると若者の頃より時間に追われてこうしたことに以外のことに悩み(若いころは若いころで忙しいのですけど、若いころはこういうことを悩む時間も含めて忙しいと解釈ください)、日々の忙しさと責任と承認欲求の間に迷子感が置き去りになっているのではないかしら。そんなふうに思うと、いつまでたってもこの探し物が何かわからないまま、探していることだけは忘れることができないため、人より少しこういうとりとめのないことを、もう少し考えているかもしれない、と思ったりします。
物事の上達にはもしかしなくてもライバルは重要なのかも、とは思いつつ、肩を並べて歩き続きたい素敵な友人たちがいて、彼ら引っ張ってもらって今日まで現実から外れずにここまでは来れました。彼らにとって自分がどうであれ、尊敬する友人と出会っていることが、のんびり者の私が本当に座り込んでしまわなかった理由なのでしょう。
尊敬する友人たちと、それから尊敬している家族。
成長はさておき、これ以上はなかなか望めないでしょう?
ただ、気になることもあって、死んだら、お釈迦様は私の一番会いたい人に姿を変えて迎えに来てくれるんだそうです。探している何かが人間だったらその姿で来てくれるのかしら、と思ったり、大好きな家族や友人のいったい誰になってくれるんだろうと思ったり、ちょっと気にしているんですよね。それって私自身が、自分が一番会いたい人を知らないってことです。これは自分の年齢を考えて、やや不安になる事実です。
まぁ、もうしばらく生きるでしょうし、焦らずのんびり見つめ続けたいと思います。私と、素敵な周りの人と、触れることはできない遠くと、いつもそこにある地球を。