おまけー調和と律についての入門者覚書

ミオさんから調和と律の話を聞いた僕が思ったことを勝手に書いています。だからおまけです。

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律、というものについて、いつから、つまりどのくらいの年齢から、必要なんだろうと思ったんだ。

宗教を考えると、仏教は学生だったミオさんが学んだとおりに律を重んじるし、一部聖戦があるにしても、基本的にはキリスト教もイスラム教もユダヤ教も、同じ団体の中では律、すなわち調和は常に重んじられる。

複数の人間がいれば、なのかしらぶつかるものであり、これは宗教に限らずそこに社会ができれば、統治者が求めるもの、そこに暮らす人たちが求めるものは平和=調和=律であるはずだ。自らを律することが難しいから、諍いや戦争が起きるということだと思う。だから、道義を説く論語は、音律の古典なんだ。

調和を重んじることは、他者との違いを理解し、尊重し、自らの欲望を律することでもある。その際に感情が激すれば、それこそ音律を持った音楽が安寧の役割をもたらすのだろうし、心を十分鍛えた人は、自分の中の自律の心によって、自身の中に平安を生み出し、他者を傷つけず、さらに他者を救うことができるものさえ誕生するんだと思う。

ただ、宗教にこれがあることについて僕はもう少し考えた。何を考えたっていうと、煩悩(欲望)と自律(寛容)について。(深い意味はない。というか、むしろ浅はかとは思うけど、思考はとらわれないものだから)

つまり、自律の心を鍛えまくった大人よりも、赤子の方が、立ち位置としては「神」に近い。

その神様は、一神教の神様ではないかもしれないけれど、一神教の神様だって、たとえすべての人間が原罪をもってこの世に生まれてきているのだとしても、ただ人間であるというだけで、赤子を悪とはみなさない、と思う(というか思いたい)。

そもそも煩悩の対義語は正覚で、自律の対義語は他律なので、こういう対比は間違っているのかもしれないけれど。

赤子の方が神に近い。そして幼子は無心に、そして心ゆくまで遊ぶ。遊びもまた神のものだ。

でも赤子にも幼子にも欲はある。生きたい、愛されたい、という心だ。生きる音、そこにある心、これは音律を持たない原始のリズムであり、邪とみなされる心感に通じる、生への躍動。「生」と「神」についてはこの際おいておくが、八百万神であれば、「力あるもの」が神であるので、無機物の岩も、山も、光も、海も、魂のでいだらぼっちも精霊も、あるいは白鹿やシロフクロウなど生命体も、人智を超える存在はすべて神である。幼い者たちが発する生への渇望は、とても力あるものだ。それにとても美しいものだ。

うーん。

僕は首をひねった。この辺ややこしいなぁ。溢れるような感情だって強い。力がある。そこに律はないかもしれないけれど、美しい激情もある、と思う。愛情とかさ。じゃぁ、多分、律が必要になるのは「他者を害する欲」を持つようなる年齢からなんだろう。でも、律が「集団」のなかでのみ必要とされるのならば、それって聖なるものなのかな。。。

音律といい法律といい、なぜ、律はそこまで神聖視されたんだろう。もう少し考えてみた。

どの宗教にも詳しかったり、なんかに傾倒したりしたりしているわけではないので、以下はご愛敬だ。まぁ、そもそもミオさんの覚書のおまけなので、誰も気にしないと信じる。

例えば、お釈迦様は、すべてを捨てて、修行して、苦行もして、自らを律しまくり、自律の極致に行きついて、穏やかに世界を見つめ、宇宙と交信して人々を救済を実現する「力」を得た。ちなみに、ここの宇宙は自分の心の底の底の底にあって、すべての人とつながっている宇宙と聞いたことがある。それは確かに輝く存在で、唯一神とも八百万神とも近い気がする。神聖な気がする。

つまり、赤ちゃんの時は一番神様に近くて、ただ身体と心の平安は、両方とも主に親であったり同じ集団の同族の意の力であったりと、外から与えられるもので維持される。他者を害する欲望を持つほどに自我が育ってしまうと、卑小な存在となりさがり神様からは遠くなる。心の平安からも遠くなる。他者を害するので、他者から与えられる平安も減少する。なんだから悲惨な時が、人間の人生には長くあり、この苦しい状態から抜け出すために、律を身に着け、自身の内側から平安を得ることができるようになることで、赤子ほどではないにしても、また少しだけ神様の方へ近づくことができる。

つまり、律によって、他者を害する欲望、すなわち邪、を払ったり寄せ付けないことができるようになるので、律=調和=聖なるものとなるのかな。むしろ清なるものなのかもしれない(聖でなく)。

成長すれば自我を得ずにはいられず、自我を得れば自我を自身で管理できるようになることは、実に難しい。それが自分と周りを不幸にする。常に精進して、いつも我慢している人だって、逆にそれが原因で調和が壊れ不和になったりする。

うん。なるほど、なるほど。人が多ければ多いほど、非常にたくさんの努力をしないと、調和と平和が保てないわけだ…。自分の心にも決して平安が得られないわけだ。そうかぁ…。まぁ、喧嘩して地固まることもあるので、調和に必要なものは一つではないんだろうけど、集団が大きいと喧嘩は危険だし。

ヘタレの僕は八の字眉にはなるけれど…、自分にできることからやるしかないんだろうなぁ、とは思うんだ。夏目漱石の言う通り、真にこの世は生きにくい…。

ただ、ついでに思ったことなんだけど、他者を傷つけない、少なくともその意図を持たない欲は、きっと美しい力であり、時に、祈りや願いや夢と呼ばれるものだろうな。

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