秋の夜
養老孟子先生の唯脳論について昨年書きましたが、ふとこんなYoutubeを見つけました。
昔から人の世は今日に至るまで変わらないけれども、戦後は人の世と、人でない世が半分半分だったと。
ここで人の世は生者の世のことで、人でない世は自然の理だけが純然とある世のことです。生者を苦しめるのは生者であるという、その話はその通りだと思いますし、私は研究者だったころ世界の8割が虫の世界で、その中にいて確かに全く苦しいことはなかった。嘘がなく、時間はかかるものの明快で論理的、そしてただ生きている。彼らを見ることは、飽きずに常に新鮮な感動がありました。実験をしてしまうとその命は当然儚く散らせてしまうし、実験に使わなくてもたとえばショウジョウバエなんかになると、直径1.5cmの試験管でただ命をつなごうとするとその試験管内の個体の寿命は良くて3週間です。彼らの生の意味を考えるとき、自身の生について意義を問うことは傲慢だと思わずにはいられない心持になることはままあり、生きることの意味とは、生きていることの絶対的な尊さの前ではとるに足らないことだと思ったものでした。
赤ちゃんは息を吸って吐くだけで苦しいときに、この世界に望まれて、その希望に応えて果敢に産声をあげて、この世にやってくるのです。生命体として、生きようという生物学的な願望意外に自分自身には望むことさえなく。私たちみんな。
私は甘えた人間なので、養老先生にお会いする機会があったとしても叱咤しかされないと思いますし、実際のところ私くらいの経験値では、まだ共感をすることもあればしないこともあるという状態ですが、この話には大変共感しました。
人は興味深い。長い旅をしたり苦しい経験を乗り越えると、それを語り継ぎたくなるし、それによって他者に貢献できるのでは、と思う。その特に想定される他者は想定では限りない仲間として登場するけれど、実際にはそれは分に過ぎた望みであることがわかってがっかりすることの方が多い。川端康成さんのエッセイを読んだ時に、今日はあそこで爆弾が落ちて、どこそこの友人が亡くなったらしい、ということが、戦時中は井戸端会議で語られた、という話がありました。この話に、暗い気持ちなるのは戦争を経験した人だけではないです。人間のやることは、声高に正しさが主張されることが多いですが、実際に形があることはいかほどなのでしょうか。我々が望んでいる「生きる意味」とは何なのでしょうか。
先日西大寺に行きました。秋の特別公開の時だったので、秘仏 愛染明王の御尊顔を拝むことができました。この明王様は、煩悩から生まれる邪な欲望を、生きるという願いにだけ適った清らかな欲望に変えてくれるそうです。
養老先生は、死体は嘘をつかない、嘘がないから昆虫はいい、自然体だから猫はいい、ただそうであるべきものがそのようにある、それがいい、と繰り返し語るんですね。知りませんでした。けれど、ただ「自身」があるべき姿でありたい、という欲望は、他者を傷つけるものであるはずが本当にはなく、これを仏様の力にすがって成そうという発想は、そうであっても他者を害する欲望があることもまた自然である、と生者の世界の苦しみを救い上げるという点で、実に仏教らしい合理的な発想であると、そして飾りない潔い教えだと感心しました。
その秘仏の愛染明王像ですが、憤怒表情と説明には書かれているのですが、なんとも可憐な菩薩さまでした。可憐、と感じる仏像に出会ったのは初めてなんじゃないかと思います。それが憤怒の表情なんて、と自分でおかしくなりました。
小ぶりな仏像です。可憐な仏像です。その可憐さは、まるで、間違ったことに突き進む両親を顔を真っ赤にして止めようとする十代の少年少女のような可憐さです。憤怒の表情を向けるその人を愛してやまない、と泣いているかのような可憐さで、何かを間違えてしまうときにはこの人に止めてもらいたいなぁ、と思いました。
生きる意味じゃなくて、ただ生きるということについて、こんな年になって(こんな年になったからこそ?)考える秋の夜でした。