形ないものを追う

今日は成人式でした。遅ればせながら2022年初めの投稿です。

皆様にとって幸多き年となりますよう、喜びにあふれた年になりますようお祈り申し上げます。

昨年、中世音楽の楽典を読んでから、礼楽の不思議を感じ、古典音楽の基礎は論語と知り、論語を読み、武士道の基礎となった朱子学、陽明学などをかじりながら、ただかじるだけで考えはまとまらないまま今日にいたりました。

私は数学や理科を主とした科学に携わる時間が多かったので、思想や文学にはあまり論理的なイメージがありませんでしたが、今は思想や文学を非常に論理的、なのにとても解釈が難しい、と感じています。中国4000年の歴史と言いますが、釈迦が生まれるより以前、キリストが生まれるより以前に、なんとまぁ、こんなに身近に人間社会が目の前に浮かぶ、ひどく共感できて、ひどく論理的で、そのくせひどく難解なものが論語だったのかと、唸る日々が続いています。

そして、煩悶しながらそうしたものを読みながら、古代から連綿と私たちが築き上げてきた学問というものを、あらためて本年の抱負としたく思いました。

中国の渾天儀。
紀元100年台ですでに天文学がち密で美しい

*

孔子も後世の学者も、自身は求道者、’仁を目指す者’です。学問はその有効な手段としてそこにあるようです。

学問は、説明できない事象に、人間の脳が理解できる論理的解釈を与えようとする営みと、既存の論理から新しい論理を作りあげていく営みなのだと思っています。説明できないことに説明を与えるために、一生をささげた人が科学の世界には多くいます。今回、思想や文学の世界にも多くいることを再認識できました。

そのくせ、論語で説かれる至道である「仁」の境地は、人間として最高の在り方、良いものの中の最善、美しいものの中の最高、正しいものの志高といわれ、正直ひどくあいまいです。音楽の古典として論語を読み始めました。「楽は仁に近く、知は義に近い」とありますが、楽もまた、良いものの中の最善、美しいものの中の最高、正しいものの志高、そして美しい最高の生き方を集めた結晶のようなものなのだと理解してよさそうでした。

それは、自然な心の中から湧き上がるもので、人として、命として、ひどく自然な状態であるということです。なので、自然でない、美しくない要素は、仁にも楽にもあってはならない。

愛する人、尊敬する人に対して自然と接する姿に仁があり、この作法が礼であり、そのような美しい気持ちで接することのできない人含むあらゆる関係の人に礼をもって接すること(ボディランゲージの実現です!)で、自身を律し、個を超えて世界そのものが最高の境地至れるようにするものが礼。

凡人である我々は、ここを目指し、ここに至るために、学び続けるわけですが、このために頼れるものが知あるいは智。

そうやって、命綱のように知識を得、学問を続けるのに、最後の最後にはそれらを全部放棄して、論理的には説明できないものを掴まなくては、仁の境地には至れない、という、その奥深さを奥ゆかしいと思いました。

日本では一冊の本を手に入れるのが困難であった時代から、本がいくらでも手に入る時代が来ました。老いた身であっても、貧しい身であっても、地域に図書館があれば学び続けることができるようになりました。まぶしいことだと、改めて感じました。

図書館のない地域が残念というわけではありません。そこにはそこにしかない連綿と受け継がれる知恵がやはりあるわけですから。

学校に通えないことは残念ですが、その子らは学校では学べないことを学び、そして最終的に彼らが至る場所もまた学校で学んだ私たちと同じなのです。

ただ、先人の教えに加え、数学と科学というものの見方も加わって、森の声を聴き、海の歌を解読する。動物のしぐさを読みとき、土を温度を感じ、風のうねりから学べるようになりました。私たちの社会には多くの問題があり、人類は滅亡に向かって歩いているかもしれないけれど、学び正していくための知恵を共有する多くの手段が存在している社会を実現しました。本を読みながら、今目指さないでいつ目指す、というくらい、仁の境地を目指す力がある社会に生きている気がしました。

人類の滅亡をカウントダウンする時計を回すのも大事だけれど、人間として最高の在り方、良いものの中の最善、美しいものの中の最高、正しいものの志高を目指せば、それで持続的社会は実現するのかもしれないなぁ、とくよくよ考えながら年末年始が過ぎていきました。

論語は朱子学や陽明学など後世の人の解釈を読むと、また別の発見がありました。論語の解釈は禁止されているそうですが、朱子学も陽明学も朱熹や王陽明が注釈をつけることで一つの学派となったそうです。こうやってみると後世の人が聖人の発言や行為を解釈していくことで成立しているという点で、儒教も聖書、聖典などと成り立ちが似ていますね。儒教の論語の立ち位置は、キリスト教の旧約聖書に当たるのかな、などとととりとめのないことも思ったりしました。論語を読むとき、私は身近な人間社会をまざまざとみている気分になる時がありました。ひどく難解というわけでなく、市井の我々にも理解できる論理的な話が多いと感じました。西洋の人にとっては、摩訶不思議なことが書いてあるように思える旧約聖書も、もしかしたらとても論理的でとても社会的な話なのかもしれません。

なるほど私がちょっとかじったくらいでは消化しきれなかったわけです。尊敬する心理学者の一人である河合隼夫さんの人生のテーゼは、河合隼夫とはなんであるのか見つけることだということでした。論語の説いていることと同じような気がします。先達に学びながら、今年ももうしばらく論語に傾倒していそうな予感です。

学び続けよう、探し続けよう、と思って迎えた新年となった寅年2022年です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

次の記事

早春の贈り物