(雑文)思い出とクリスマス

親戚の多くがクリスチャンだったので、小さいころはクリスマスは特別でした。

教会で聞く物語のようなキリスト生誕のお話も珍しく、そのあとのビスケットと葡萄ジュースも、兄弟と一緒に笑いあって楽しく、晩の食卓でいつもよりごちそうが並んで、にこにこの両親とみんなで飾り付けをしたキラキラツリー、そしてクリスマスの朝にはサンタからの贈り物が枕元に置いてあるのはとても特別なことでした。クリスマスの最初の記憶は、2歳か3歳の頃で、早起きして開いたクリスマスプレゼントの包装紙の中からバービーちゃんを見つけたときの心躍るような嬉しさと、そのお人形をもって、同じくバービーちゃん(姿は違った気がします)をもらった友達と見せっこした誇らしい気持ちと、その友達の家で見た赤と白のストライプのついた杖の形のキャンディーときらきら光る丸い飾りがたくさんついた見上げるようなクリスマスツリーの荘厳さ、しかも友達がツリーのキャンディーをその場でツリーから外して渡してくれた驚きと嬉しさと、そしてそのハッカキャンディー(杖のキャンディーはハッカ味)の美味しさです。とぎれとぎれの思い出ですが、自分がひどく子供らしい喜びに満ちていたことが優しい記憶として残っています。

フランス ラファイエット(デパート)の飾りつけ

私にとって、クリスマスといえばそれは「笑顔の日」で、特に子供の笑顔があってその子が家族と笑うのならば、そしてそれがクリスマスイブや当日であれば、それだけでクリスマスというのは完全なものです。なので、年を取ってからたまに厳粛にクリスマスを迎えるためにツリーや贈り物を取りやめる教会があったと聞いたりすると、ひどくがっかりしたものです。キリスト様も子供の頃は他愛ないことを喜ぶ無邪気な子供であったろう、と思うので、子供の笑顔を損なう取組みはその志が立派なものでも、クリスマスの神聖さをかえって損なうものと感じてしまうのです。

そういうわけですので、小さな愛し子の笑顔がそばにない年は、クリスマスはかなり苦心しない限りやってきません。

ひとりは気楽ですが、何事にも良さと難しさはあるものです。贈り物をするような孫もいない、訪ねていくような距離に家族がいない、友人には自身の家族がいる、そんな年は、年をとれば多くなります。工夫してもクリスマスを作るのも難しそうだと判断すれば、その年はクリスマスのない年として、それはそれで肩をすくめるだけで済むことでしたが、虹色の思い出があった日に色を付ける努力は、一応やってみることかと思ったりもします。

クリスマス序段、カードや贈り物をくれる遠方の友人や家族が、まず最初の足音になります。

カードや贈り物は、自分が出さない限りやってこない、と感じるときはひどくおっくうな気持ちにもなります。自分から出さない限り貰えないよ、と言われればそれはそうだと思っても、永遠にその方向しか関係性が存在しないのだったら、それもそれでしんどいことです。でも仕方ない。そう思っているところに、誰かから何か届いて有頂天になったりするのは、12月特有のものかもしれません。(日本という国柄、年賀状まで含まれがちですが)

それからクリスマスに向けて、クリスマスソングを聞いたり、商店街やデパートの華やかさを眺めたりします。その華やかさは、自身の楽しい思い出を上手に引き出してくれる音楽のようなもの。

イブや当日は、自身の場所をみつけるのはもっと難しいので、クリスマスだから、と言い訳して、自分に贈り物を見つけたりわがままを許してみたり、クリスマスソングを聴いたり、よいしょと町に出て笑う子供たちや家族連れを眺めます。そういう小さな試みだけで、胸の中でやっぱり思い出がハーモニーを奏でだすのです。

今年は偶然、友人が突然時間ができたと連絡をくれたので、その若い友人とイルミネーションを見に行って、夕食までご一緒して、ホクホクと過ごすことができました。おひとり様は悪くはないけれど一人では作れない気持ちと時間があるものだな、と改めて家族や友人の温かさをしみじみと思いました。散歩と夕食をご一緒してくれる友達がいるのと、一人で家族連れを眺めて過ごす、あるいは仕事や読書をして過ごすのは、何の不満がないとは言っても、それは全然違う時間ですもの。思い出してもらえたことは本当に幸運でした!

一人で過ごしても、誰かと過ごしても、一人で生きてこなかった時間がその存在を訴える、そういう時間が、知らない人たちの笑顔の合間から、いたずらな顔をして手を振る日、それがクリスマスかもしれません。手を振られて、振られていることに気が付かないほど誰かと一緒に笑っていることもあるし、気が付いて懐かしくなることもあるし、寂しく感じることもある。どう感じるか、それはその年にクリスマスを迎えるまでは分からないけれど、手を振ってくれる思い出たちとの再会そのものは、悪くないものだと思っています。

ボリビア 南半球 夏のクリスマス

一人で暮らすようになってからは特に、クリスマスは年終わりのイベントの一つにすぎない、ともいえるのです。けれど、年の瀬は年の瀬であるという事実が懐かしい友人たちと時間を共有する口実になり、それを思えば、クリスマスは年末にかけての明るく温かく慌ただしい時間の始まりを知らせる鐘のようなもの。

つまりはですね、私にとって年の瀬はクリスマスとともに始まるわけです。誰かと会えれば僥倖ですが、誰に会えなくとも、これから新年までは、一人でなかった記憶が音楽を奏でる時間です。

みなさん、メリークリスマス!

これまでに出会ったあなたと、これから出会うかもしれないあなたが、ぬくもりとともにありますように。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

前の記事

冬の満月

次の記事

形ないものを追う