フクロウばあさんの知恵の毛

フクロウばあさんは、コンクリートのビルの上の高い木のアパートの最上階に住んでいます。

生き物たちの様々な活動から、森林は減り、ばあさんの家の周りもすっかり住宅街。アパートの窓からは、1ブロックむこうにある小学校のグランウンドが見えます。土地開発に従って、小学校はグランドを手放し、少し郊外にある代わりにばあさん家のアパートの前のグランウンドを購入したのでした。

人間という生き物が、このマンションを建てて、捨て、そして今は動物たちが暮らす快適なコンクリートの建物になりました。その屋上にあった植木の木は、コンクリート侵食しながら大きく育ち、鳥たちのアパートになりました。寒い冬には落ち葉や木の葉を敷き詰めて、温かい春には風遠し良く。高いところの部屋なので、カビや湿気の問題がありません。近所に知り合いもいて安心です。

ばあさんはなかなか器用で、米も炊きますしパンも焼きます。3度の食事は自炊ですし、年とともにおやつも手作りが多くなってきました。ちょっとしたほつれは、きれいにはできなくても使えるくらいには繕いなおし、石鹸なんかも手作りします。

断捨離して、お金持ちになろう!という本を読んだこともありましたが、物はあんまり捨てません。涙を流すほどの思い出が詰まっているわけではなくても、それなりに縁あって自分のもとにある食器や空箱や紙くずを、いつか何かに使いましょう、と棚いっぱいにためています。棚に入らなければ捨ててしまいますけどね。

孫娘は、さすがお年寄り、持続的生活ね!

と感心してくれますが、コンポストや庭造りをしているわけではありません。体力的にもややしんどいですが、まずは地面がないからです。窓辺に小さな植木を置いて、ハーブを植えたりしています。スーパーも大活用です。アルミも買いますし、プラスチック用品も電気もガスも使っています。動物住居ビルは実に便利にできているのです。

家を出ない日は、窓から外を見て、空をきれいと思ったり、風をかぐわしいと思ったり、もう長距離は跳べない羽を休めながら、世界をぼんやり眺めて過ごします。

ばあさんは時々鏡に自分の姿を映します。

ばあさんの自慢は、知恵の毛があることです。長い一本の眉毛です。知恵を示してくれたことはないのだけれど、その知恵の毛はばあさんの父さんにもあり、その毛がちゃんとそこに在ることを見ると、なんだか安心するのです。

ばあさんがまだ卵からかえったばかりの頃、ばあさんは父さんの長い長い知恵の毛を「眉毛に一本だけ長いのがあるよ」と言って抜こうとしたことがありました。その時ピーピーと羽を伸ばしたばあさんから、父さんはさっと後ずさり「大事な毛なんだから抜いたらだめだよ」と笑ったことを、ばあさんはなんでかずっと覚えていて、この毛はきっとじいさんやあるいは曾ばあさんにもあったに違いない、と幼いながらに思ったものでした。

そういうわけで、ある時その父さんの知恵の毛に似た長くて太い眉毛が一本、自分にあることに気が付いたときは、ひそかに心が躍ったものです。ふくろうの知恵の毛が私にも!

若いころには、弓型の眉毛がはやったりして友人たちの眉はこぞって細く短く弓なりになった時期もありましたが、うら若かったばあさんは無言でその毛を保護しました。人生に迷った時期に、あんなに太くて長かった知恵の毛が眉毛のどこにあるかわからなくなって動転したこともあります。知恵の毛は、ばあさんと尊敬する父さんをつなぐもので、ばあさんが小さなふくろう一族の末端にいることをなんとなく誇らしく思わせてくれるものなのです。

ある日、遺伝子の本を読んで、ばあさんは神様を偉大だと思いました。子が親に似るということは、子供は自分の姿を知るだけで自分のルーツを感じることができるのです。水かがみ、ガラス窓、動物たちにも自身の姿を映す方法はいくつかあります。すべての動物がそれを自分と認識できるだけではないけれど、できる生き物はそれなりに多いのです。

眉毛をきれいに整えている孫娘にも実は知恵の毛があります。ばあさんの息子にはその毛はありませんでした。

何を成したわけでもない、何を成すわけでもない、でも、この子が知恵の毛を持っているだけで、ばあさんはとても嬉しいのです。いつか孫娘が知恵の毛を大事にしだしたらいいなぁ、と、自分とは違っておしゃれな孫娘をニコニコ見つめてしまいます。

掃除をして、料理をして、買い物をして、窓からの景色に微笑んで、時々鏡で知恵の毛を確認する。そういう毎日。

フクロウばあさんは、本当は自分の知識をもっと役立たせたい、とか、便利な世界の便利さに甘えて、地球を食いつぶしている一人なんじゃないか、とか、とても悲しく思うこともあります。年を取り、人とも会わず、文明の恩恵を受けるだけで罪深い存在なのだと言われるととても悲しい。

この穏やかな生活を送ることは罪深いことでしょうか、と知恵の毛に聞いてみますが、眉毛は何も言ってくれません。

高い木のアパートから沈む夕焼けに胸を震わせて、あぁきれいだな、と思っていたら、ピンポンとチャイムが鳴りました。

「おばあちゃん、今日は月食だよー」

玄関には望遠鏡を片手に持つ孫娘。孫娘が笑っているのを見ると、自分が知っている、自分が愛したすべての美しいものが、これからもずっとそこに在って、自分の愛する者たちが同じものを見つめてほほ笑む明日が、ずっと来るといいなぁ、とばあさんは思います。

人間たちはそれを、持続的社会のための活動と呼んで、ワイワイやっているようです。

おやつの虫を出しながら、ばあさんは孫娘に聞いてみます。「おばあちゃんの生活に罪があるとは思わないよ。」孫娘は、虫をついばみながらあっけらかけらかんと応えます。「社会が複雑になったよね。」ワシとネズミや、コクゾウムシとメジロがお隣さんになる時代だものね。

心配しなくても、考えるというワンステップさえ踏めば、そう簡単にバカは起きない。みんな生きるために生まれてきたんだから。

若いなりに力強い、フクロウ次世代の言葉です。姥捨て山もなくなったし、子捨ても減った。先人がどこを目指して今という時代を作ったか、みんなちゃんとわかってる。ただ、生き物は間違えるものだから。

考えさえすればねー。憂い深い溜息一つ。

段々隠れていく月光のなかでも、根本が太い知恵は、ぎゅんっと伸びています。毎日を大事に、大事に暮らしていって、それが明日も明後日も続けばいいのにね。

月はまた徐々に姿を現すでしょう。フクロウばあさんと、ばあさんに似たフクロウお嬢さんは、空を熱心に見上げます。

二人の眉には、思慮深げな知恵の毛が仲良く同じ方向を向いて揺れているのでした。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

前の記事

早春の贈り物