(短編)幸福な王子
初めて読んで泣いたのは、幸福な王子という絵本です。
字を覚えたばかりのような年の子供だったと思うけれど、そのお話はいつでも私の心のどこかで、消えない灯のように在り続けていると思います。子供心に大きなショックを受けたのでした。
兄弟の風邪かなんかで病院に行ったとき、一人でどこかの待合室で母と、弟だったか兄だったかを待っていた時だと思います。
子供が退屈しないように置かれていたアニメ風の可愛らしい絵のついた、薄い絵本シリーズ。同じシリーズの別な話が友達の家にあったので、当時割と流行っていたシリーズ絵本だと思います。本棚に並んでいたたくさんの中から、まだ読んでいなかったそれを手にして、6歳か7歳の自分がこっそり泣いたことを覚えています。
家にある本ではなかったので、大人になってお話自体に再会するまで、本当にその待合室で読んだ一度きりしか読まなかった本ですし、絵本に至ってはそれ以来見ていませんが、挿絵の印象などをよく覚えています、字の少ない平仮名の、あるいは送り仮名のついた、短い絵本。
有名なお話なので、みんな知っていますよね。
愛をもって人に尽くし、それを知られぬまま、尽くした人に壊されてしまう王子。王子への友情のために、ともに人に尽くして、顧みられず捨てられる燕の死骸
子供だったので、単純にそれがひどく哀しかったことを覚えています。
だから最後の2ページは救いでした。本当は、王子の優しさに皆が気が付いて、町の人と、王子と燕が、ずっと幸せに暮らしてほしかった小さい私。でも壊されてしまった王子。それなら、王子が愛した存在でないとしても、王子を愛する存在が、あるいは王子のすばらしさを認める存在が、その魂を、王子を愛した燕の魂とともに、限りない平安の中に受け入れてくれたのがせめて救いです。
そのとき、神様は、親みたいなものなんだと、思ったように思います。その存在が一緒にいれば安心で、怖いものは何もなく、哀しいことがあっても幸せでいられる存在。
我が家は、「神様」という言葉が普通にある家だったので、神様をいつ知った、とかは覚えていないのですけれど、最後の2ページの神様と天使が、私の中にあった漠然とした神様と天使の姿に輪郭を与えたことは確かです。
その後オスカーワイルドの他の話が教科書かなんかに中学生の頃に出てきて、いまいち幸福な王子と結びつかなかったことも覚えています。作家さんは、その作品の中でいろいろな顔を見せますね。
好きなお話を書く作家さんの本は大体みんな好きで、同じ作家さんの本は数多く読みがちな私なのに、幸福な王子に関しては、そのお話は動かしがたいほど特別に確立されて、心に根を張り揺るがないので、オスカーワイルドという人にはあまり興味を持たなかった、というのは、思えば不思議なことです。小さかったこともあるとは思いますが。。。(これを書いていて本を探してみようかと、初めて思いました。同じ著者の本をたくさん読めば読むほど、根底には同じ精神があることが分かるものです)
皆さん、常なら5月に来日する燕たちが、もう軒下に巣を作り始めました。
燕は、人間が町という文化を発展させる中で失われていった林から、家の軒下に営巣場所を替えました。
人と共存することを選んで、今日まで紡がれている命。
住人が燕の営巣を嫌がって、巣が撤去されてしまう「きれいな」現代の町。数の減ってしまった燕は、今は保護鳥に指定されています。駅やお店の軒先では、確かに働く方は衛生問題を気にされるとは思うのだけど、毎日できかけの巣を壊して所在無げに悲しそうな親燕を見るよりも、巣の下に段ボールをひいて毎日取り換える方が、精神的にもきっとずっといいし、駅やお店を利用する私たちだって嬉しい。生き物はウンチをするんです。燕の赤ちゃんはおむつ出来ないんです。
昔からの農作業を助けてくれただけでなく、人との共存を選んで生き残ってくれた鳥。夏の短い間、彼らの子育てを、見守ってくれる人が増えてほしい。
燕はずっと人に寄り添ってくれました。
そして人と生きることを選んでくれました。
鳥類の進化は哺乳類の後で、鳥類ってとても偉大なんです。今、私たち人類は、愛に満ちた自然から、愛の象徴なようなものを失くすばかりだけれど、幸運を運ぶといわれる燕自身が、幸福に満ちて私たちの生活の中に在り続けてほしい。
彼らが、選択を後悔をすることが、決してないように。