英語
学生の頃に一年間オーストラリアの大学で過ごしたことがあります。
今のオーストラリアからは信じられないことですが、学費を別にすると、当時オーストラリアでの生活は日本人にとっては経済的には日本で暮らすよりも安かった時代です。ただし学費はオーストラリア人が年間600ドルだったのに対し、インターナショナルの学生は年間1万ドルを支払っていました。大学の交換留学生として、日本の大学に納める以上の学費が必要なかったのが私にとっての幸運でした。
一年だけ、ということで大学の女子寮を探し、シャワートイレ付きの部屋で3食付いて(掃除もしてくれて)、日本の一人暮らしの2倍弱くらいでしょうか。金曜日はフィッシュアンドチップス、日曜日の朝はポリッジかベーグルが隔週で、シェフは二人いて、毎日野菜もデザートもしっかりメインも複数の準備がありましたし、寮母さんのように優しい寮のこまごました雑務をこなしてくれていたおばちゃんが3人、それからハリーポーターよろしく寮に校長先生がいて、寮長をトップとする運営組織がありました。
シェアハウスは日本でもだいぶん人気が出てきているようですが、当時からオージーの学生にとっては、それは一番安く一番自由な暮らし方だったようで、高くて窮屈な寮にいるのは17歳から18歳の新入生の女の子ばかり。一方、教育制度の違いもあるのだと思いますが、インターナショナルの方は大体二十歳は超えていた気がします。私は24歳で、寮ではすでにお年寄りでした。
半年以上たったある時に、ふと、連れだって遊びに行ったりするようになった友達がみな二十歳以上ということを発見したことがあります。人種差別も割と目にして、寮内でもそういう話を聞いたことがあったこともあって、当時は差別や偏見を失くすのは分別と教育だから友人層の年齢が高いのかなぁ、みたいなことを、それこそ分別臭く思っていました。でもね、そういうわけではないんですよ。
もっと後の帰国間際になったころ、食事のとき、時々一緒に座っていた友達(当時18歳)と戸口でおしゃべりをした最後に「もうすぐ帰国。何もできなかったなぁ」といったら「何言ってるの、初めの頃、こんなに長くあなたと英語でおしゃべりできなかったわ!」と彼女がびっくり顔で言ってくれて、目からうろこ。
10代の女の子が複数集まってすることはおしゃべりでしょう。皆、そうは感じさせないように最大限配慮してくれていて、のんき者の私は本当に全く気が付かなかったわけですが、実際に私の英語に付き合うのは時間がかかり、話も弾まず、なるほど一緒に遊びに行くなんてそりゃあ考えるだけでも大変です。20代の子は経験値があって、ワイワイしなくても平気であった、ということ、そして英語ができない人の英語を聞き取る根気があったということが、一緒にお出かけするようになった背景にあったのでした。
寮の子はみな、老いも若きも(というか、みな若い)、私が日本からきて、英語が下手で、でも一年間しかいない、というので、気にかけてくれていて、イベントには声をかけてくれ、分からなそうにしていたら丁寧に身振り素振りで説明してくれ、食堂で一緒になればおしゃべりに興じ、毎日笑顔をくれていた、のです。同じ空間を共有するものとして、それ以上望むことがあるでしょうか。
優しい寮の仲間たちでした。
そして私はほんとうに英語ができませんでした!交換留学生になるために、あんなに英語を勉強して、TOFLEの成績が交換留学生の中ではよい、というので、大学から奨学金もいただけて、自分では思う以上に、渡豪前は、私はきっと英語に自信があったのです。大丈夫、出来る!と思って来てみたら、とほほ、トホホ。
交換留学生は、別に単位を落としても日本の大学の進級には関係なく、ノルマも少なかったはずですが、それでも最初の試験期間が来たときは、レポートに追われながら、イライラしてきて、分厚い英語の資料を、こいつら全部丸めて窓から捨ててやりたいと、本気でにらみつけていたものです。一度、本当に教科書を振りかぶって窓まで行って、下を覗いて、人がいるのを見てやめたこともあるのでした。
国籍や年齢に関係なく、寮や教室の仲間たち、先生方や大学の学生センターの方には本当にお世話になりました。
現地のインターナショナルストゥーデントの日本人の学生が、「この前、酔っ払って疲れ切ってソファーに倒れこんだ時ね、英語はBGMなのに日本語は意味が分かるの。私、日本語出来るなぁって思ったよ」と笑って言ったときには、皆で、そうだそうだとうなずいたものです。
ネイティブでない以上、仕方ない、と腹をくくり、私は英語でのコミュニケーションに意思が通じるレベル以上のことは望まないようになりました。人と接するときには、それ以上のものが態度や笑顔にあることは身をもって分かるようになったので、言葉の美しさや繊細なニュアンスが分からないことは悲しくとも、そういうところで補おうと思ってきました。
外国にある程度いると、ある時から、不思議に「分からない外国語」が頭の中で日本語に聞こえるようになります。「はい、わかりました (yes I understand)」が「わかった~」とか「承知しました」とか違う日本語に脳内変換されるのです。日本に帰ったら、また、「外国語」に戻るのですが、この経験があるせいか、人の個性というのを、わからない言葉の中に感じるようにはなりました。面白くて、夢中で読んでしまうような、そういう素敵な本との出会いもあります。
メールのときは、マナーとして、情報や書き方にある程度しきたりがあり、そのルールを越えないようにしています。お互いを知ってからなら、その下手な文面の向こうに相手は私の顔を思い浮かべて笑ってくださるので、そうでない場合は、ルールやしきたりがある方がありがたい、と言わなくてはいけません。
それなのに、日本に帰ってきたら「泉竜さんは英語ができるからな」と当時の指導教官や先輩、先生方に行っていただく機会が増え、それはそれで面食らったのでした。
私は英語ができない、これはその一年で刻印として脳に刻まれました。だから勉強は、日本語も忘れるようになったこの年になっても続けていますし(若い頃も忘れがちだったので問題はなし)、「英語ができるね」といわれると、あはは、と笑うしかないのですけど、でも言語が待つ力には、大きな敬意を表しています。
学生の後はしばらく研究者で、日本で少しばかり英語で会話ができることが一体何であろうか(科学の言語は英語であり、友人、知人、皆、英語が話せましたし、非常に格のある英文を書かれたので、文章に至っては足元にも及びませんでした)、と思っていたら、会社員になって、やっぱり英語ができるね、と言われて、角度が変われば、世界が見せる顔が変わることにやはり面喰いました。
私は日本語を本当に美しいと思うのです。文字通り、「言霊」として美しいと思うのです。だからこのブログも、日本語で書こうと思いました。英語にある言霊には、日本語ほど触れることはできません。テニソンの詩も、ふーん、という感じで読み進む自分がいっそ悲しいほどです。
ちなみにフランス語やノルウェー語は、意味はさっぱり分からないなりに、小鳥のさえずりのようだと思い、言葉の美しさって、どういうふうに現れるか分からない、と感嘆しました。日本語は、意味が分からなかったら、音を美しいと思うかは自信がないです。
言葉は余計なこともいっぱい。人を傷つけてしまったり、意地悪なことを言ってしまったり。。。外国でのやり取りの良いことはこれを格段にせずに済むこと。それから英語ができなかったから、言葉を超えたコミュニケーションがどれだけたくさんあるか、力あるものか、感じることができました。
言葉のできない国で交わす笑顔が100の言葉よりも強いメッセージをくれました。
言語は人類の宝です。文化や歴史を反映している。でも、人が本当に心震わせるのは、言葉という国別に違うものではなく、私たち人類が共通に持っている、思いやり、という「言語」だと思います。
そういう美しさを、研磨するように、生きて、そして死にたいです。