友達の魔法
他人の目に幸せそうに生きている人も、心をもって生きる以上、悩みに無縁ではありません。認める認めないにかかわらず、誰にだって悩みがあるのだということは皆知っていますよね。
明日のご飯を心配したことは、ありがたいことにありません。でも胸に抱えている悩みとは別として、恵まれているとき、人はあちらこちから心配事を拾って来たりします。ずいぶん前、半世紀はまだ生きていなかったけれど、人生もだいぶん成熟期と一般的に呼ばれる頃、なんとなく、なんとなく生きてきたなぁ、と思って悩んでいたことがありました。えぇ、そう、私は贅沢な中年のおばさんでした。
たくさん色々なところに行ったような気がする。
たくさん素敵な人にあったような気がする。
たくさん素晴らしいものを見たような気がする。
同時に
たくさんの理不尽を見たような気がする。
たくさんの悲しみに触れたような気がする。
たくさんの絶望があることを知った気がする。
そういう感じです。そして何かできることがあるような気がするのに、何もしていないこと、大人になったのに何もできていないことをつらつら思って自身を無駄だと感じるのです。子供のころ、自分はどんな大人になると思っていたでしょうか。振り返れば満ち足りた子供時代でした。そしてその満タンは、いつでも自分と共にあると信じていたように思います。親や兄弟、それから友達や親戚や近所の大人たちが自然に満たしていてくれたエネルギータンク。いつしかそのタンクが、空っぽではないのだけど、なんだか見慣れないものが入っているような、見知らぬタンクになってしまったような、そんな感じがしたのです。いつからか、それはタンクをいつも人に満たしてきてもらってきたことが原因だったのかもしれません。自分はタンクに何を入れたかったのか、今タンクには何が入っているのか、さっぱりわからないわぁ~、困ったわぁ~という感じです。
そういう時は本だ、とばかりにそっと歴史の偉人の本を覗き見ますが、本の中の人は、若くして多くのことを成し遂げていますね。信念をもって強く生きていますね。夢をもって邁進していますね。余計がっくりしたり。
なんとなく隔絶した空間に、なんとなく一人でいるようなそんな毎日に、時々愛のこもった叱咤激励と心配を受けながら暮らしていて、愛がこもっていることは分かるもののなんだか遠い世界の言葉のよう。茶化して返したり、ろくなことをしなかったような。振り返れば、10代のころは「世界旅行に行く」というそのことが夢で、そのために外国語を勉強したり、英語のテストを受けたり、一人でいろいろなことに挑戦しました。それは目的のための必然で、その頑張りは元気の源でもありました。子供の私は目標がないと歩けない子でしたが、目標は自分で設定しない限り歩かない子でした。でも10代のころのその目標、何のための目標でしょう。世界を見て私はどうしたかったのか。世界を見て回れば、世の中の真理に近づけると思っていました。真理を知れば、世の中の不安や理不尽の仕組みがわかり、そうすればそういうものは私の周りから消えるのだと、自分は内側からどんどん満たされると思っていたような気がします。確かにそのころ、「見ること」は私の目標でした。
形ない、でも形ある方向性。
そのわたしが、それから数十年たったある日、ある程度の経験をした後で、友達になんとなく「私がしたことって’見た’ことだけ。」と、嘆くのですから人生は難しい。「見る」次のステップに行きたかったのかもしれないし、見ることからは何も生まれなかったとがっかりしたのかもしれない、そういう残念な迷いの中でぽろっといった言葉。
友達は、自然や森に詳しくて、人間にも温かいまなざしを注いでいて、優しいのにさっぱりしている、尊敬しているだけでなくて、一緒にいると楽しい、そういう人。その方がわたしの言葉を聞いて、嬉しそうに何と言ったと思います?
「私は今、’見ること’、が課題ですよ」と言ってくださったのです。
「見ることが課題」
さわやかな風のような言葉でした。
なるほど、確かに物事をきちんと見るって本当は難しいことです。私は見てきただけ、と言って本当にきちんと見ていただろうか、と、若いころあんなにもいろいろなものを見たかった私が、お墓から突然ひょこっと頭をもたげたような、そんな気持ちがふつふつと沸いてきたのでした。
そうか見るだけでもいいんだ!
自身もいろいろ悩みながら、でも柔らかな生き方をしている彼女がその時一番興味のあった事が、「見ること」なのです。彼女の言う「見ること」と私の言った「見ること」って等価かしら、私は見てきただけといって、ちゃんと見てきていたかしら、と、「見る」ことの難しさに思いをはせ、まだまだである、というそのことに妙に勇気づけられたのです。正直に言うと、とても安心したのです。
その元気が今でも私を生かしています。
伝えることがある人、成すことがある人、実りをもたらす人、いろいろな人がいて、足掻く人の姿も意味があると思うのだけれど、その中に、息を吸って吐くこと、痛みを感じる人、耳を澄ます人がいて、それなら’見る’人がいるもいいわね、と思えました。
見たことや聞いたことを伝え分かち合うのは人類に与えらえた能力の中ではかなり高い能力だと思うけれど、日向ぼっこをする老いたカメを見て、可愛いと思っても、世界に何か還元しろ、という人はいないですよね。疲れて眠る犬を見て、なぜ番犬をしないんだ、と怒るのは犬に役割を与えた飼い主だけで、それ以外の人は、よしよし、良くお休み、といってくれますね。なるほど、私は私に役割を与えて私を叱ることもできるけれど、その気持ちは私が私に役割を与えなかったから生まれたものだと思うんですよね。与えられていない役割を果たしていないのは当たり前のような気がするなぁ。私はもっとうんと幼いときに、すでに決めていたじゃぁないか、世界を見ようと、美しいものも汚ならしいものまっすぐに。見つめることは愛することなんだと。恵まれた環境でこのように生きてきた私、愛した世界に何も返すものがない私、でもまだできることはある、みたいな、バカみたいな元気。一生をかけても、見るものが足りなくなるんてこと、ありませんもの。
嫌いなものは嫌いとして、好きなものが多いと心安らかな気がしませんか。それに流れていった時の中で、愛した場所を泡のように失い、嫌いな人だけ胸に抱き続けるのは愚の骨頂です。何よりそこまで器用ではありません。諸行無常とはよく言ったもので、冒険を願った割にはリスクを避けて生きてきてしまった私ですが、面白いと思うもの、美しいと思うもの、好きなもの、目をそらしてはいけないと思うもの、そういうものをただ見ることは、そういうものをただ愛することでした。愛したから失われたことが寂しいのです。友達が、思い出させてくれた、ビジョンです。
’時’が流れれば、すべては泡のように消えてしまい、もう二度と会うことのない人や場所ばかり。愛した方がお得。
見よう、見ていこう。生きている限り。
未生さん、80歳。今でも変わらずこれが人生の目的です。