(お話)ポピーの話 後編

目覚めたとき枕元にはポピーの花があふれかえる花瓶があった。

曲芸師はぼんやりと頭を起こそうとしたがさび付いてしまったかのように動かない。ふかふかのベットに白いシーツ。ここはどこだろう。きれいな部屋だ。水色のカーテンが揺れ、壁紙には繊細な文様が書かれている。

「あぁ目が覚めたのですね」

真横から声がして曲芸師はぎょっとして横を見た。そこに一人のブリキの男がいた。寂しい瞳をした男だった。

あぁ、そうだ。曲芸師は思い出した。目の端に移った、まだ幼い大型犬のうずくまる姿。

曲芸師は祈るような気持ちになった。「コロは大丈夫でしたか?」と聞く。するとその問いに答えるように、ベットの下からワン、と声が聞こえた。ブリキの男は優しく笑って、ベットの下のコロを男が寝ているベットの上まで抱き上げてくれた。コロは曲芸師の顔を一生懸命なめた。曲芸師は笑った。

そう、一人と一匹は一緒に芸をしていた。火縄くぐりの芸だった。けれど芸は失敗したのだ。コロは片足だけで上手に飛び降りたのだが、下に来ているはずの台がなかった。台を押す二人が、その時に限ってどうしてタイミングを外したのかはわからない。コロが火の輪を超えたのを見計らって跳躍した曲芸師が一回転して火の輪をくぐって台地に降り立とうとするそこに、コロがうずくまっていた。足の一本ないコロは、台がなければ、飛び降りたその場所にうずくまるしかなかったからだ。

曲芸師はコロが飛んだ時、誇らしげにほほ笑んだ愛しいブランコ乗りの顔を見ていた。痛むはずのないブリキの胸がチリリと音を立てた気がした。コロは十分に練習したから大丈夫だろう。だが曲芸師には自信がなかった。たくさん練習はしたが、ほとんどの時間をコロに費やしてしまった。曲芸師の跳躍は、リハーサルではうまくできたが、実際には3回に1回は失敗するのだ。コロがうまくいって自分が失敗したら、あのかわいいブランコ乗りはどう思うだろう。ブリキ製の体がきしんだ気がした。

だから曲芸師は、空中一回転をする視界の隅で、飛び降りるべき場所にうずくまるコロに気が付いたとき、驚愕したが、納得もした。自分はきっとコロが失敗すればいいと思ったのに違いない。こんな僕に忠実な、かわいそうなコロ。

曲芸師は火縄をくぐる最中に大きく身をよじった。コロに落ちないにはそうする他なかった。衣装は断熱材だったが、曲芸師の髪に火が燃え移った。ブリキが熱い。そこから先を曲芸師は覚えていない。観客から叫び声が上がったような気がした。

そこからどうなったのかはわからない。ブリキの男が言うには、曲芸師が気が付くまで、そして元気になるまでと、ブリキ男は曲芸師とコロを預かることを団長に申し出たのは男自身だという。

「僕はずっとあなたを知っていました。かつて人間だったブリキの曲芸師。これも何かの縁です、どうぞゆっくりしていってください」

親切なブリキ男の瞳は寂しかったが、明るい声だった。曲芸師はしばらく眠っていたせいか体が思うように動かない。男の言葉に甘えることにした。そして、自分がコロの母親を追い払ったことを想った。

ある日ブリキの男は器械屋を一人連れてきた。曲芸師に失った片足を作ってくれるという。コロがブリキの男の冷たい手をなめる。男はコロを撫でてやる。「お前はブリキでできていないからね。しかし代わりに義足を作ってやろう。君の肢はブリキじゃなくて木と鉄を使って作ろうな」歌うように言う男を曲芸師はまぶしいような気持ちで眺めた。

二人はいろいろなことを語り合った。聞けば男も昔はブリキではなかったのだという。気が付けばブリキになって、家族が死んでしまっても、一人で生き続けるしかなく、ブリキの曲芸師とコロの話を聞いたときは驚きもしたし喜びもしたそうだ。時には二人と一匹で歌ったりもした。「事業を立ち上げましょう。足の悪い人と動物たちに義足を作る仕事を。」そんな話をして二人は笑いあった。コロは静かに耳をそばだてていた。曲芸師はなかなか動けるようにならなかったが、それは穏やかな時間だった。

それから曲芸師の新しいブリキの足ができた。曲芸師は、そこまでしてもらっては申し訳ないと一度は辞退したが、今はすっかり仲良くなった男に押し切られた。「いったでしょう、私は本当は私の足を差し上げたいくらいなんだ。もらってくれなきゃいけませんよ」温かい声は、それが心からの申し出だと曲芸師を信じさせるに十分だった。そして、それは本当にありがたい申し出だった。ブリキでも両脚はあった方がいいに決まっている。

「じゃぁ麻酔をかけますよ」

そういった器械屋はフードを深くかぶって顔の見えない男だった。曲芸師は少し怖かったがおとなしく麻酔を打たれた。意識は暗転した。

麻酔が弱かったのだろうか、ふと目を覚ました曲芸師は仰天して叫んだ。「違います、あなたは何をしているんです!」何を思ったのか、器械屋はブリキ男にも麻酔をかけ、親切なブリキ男の足を切り落とし、曲芸師に付けていたのだ。器械屋はどうしたのだろう!

「おや、目が覚めたんですかい、心配されるな、あっしは腕がいいんでね」曲芸師はそれを聞いて苛立たしげに叫び返した。「違います、なぜその方の足を切り落とすなど馬鹿なことをしたのです」その抗議「に涼しい声で器械屋は答えた。「あんた新しい方がいいのかい?こっちが旦那のに決まっているだろ」そうして曲芸師に再び麻酔をうった。違う、その人の足を切り落とすなんて、なんてひどいことを、と呻き続けながら曲芸師は気を失った。器械屋は作業を終えると、メイドから代金を受け取ってさっさといなくなった。

やがて目が覚めた曲芸師は恐怖の心を抱えたまま震える手で隣のベットに寝かされていたブリキ男の手を取った。あの器械屋はなんてことをしたんだろう。新しいブリキの足がこの男のもとの肢よりうまく男の体にフィットするなんてありえない。

ブリキの目に涙がにじんだ。曲芸師は静かに泣いた。

「…さん」、吐息のような声が聞こえた気がした。ふと手を握り返された気がして隣を見ると、明るい色の髪をした男が隣のベットからこちらを見ていた。瞳が濡れている。

曲芸師は男の手を握る自分の手を見た。温かい。

傾けた顔を仰向けに戻すと、伸びかかった髪が枕にこすれる音がした。

二人はもうブリキでなかった。

そしてもう数週間が過ぎたころ、サーカスは別な街に移動することになった。

曲芸師は今日、サーカスに自分の荷物を取りに来たのだ。テントの前にはそっとポピーが置いてあって、ブランコ乗りや猛獣使いには会えなかった。コロをそっとなでる。誰が置いたかはわからないが、優しく咲くその花をブランコ乗りのテントの前にそっと置く。

「いこうか」、と声をかけるとワン、と返事する。曲芸師は微笑んだ。

時々考える。男が目覚めた時、「兄さん」と言ったような気がした。しかしそれは空耳かもしれない。なぜってそんなはずはない。街も庭も家も記憶にない。それにそんなことはどうでもいいことだ。

「ともに事業を立ち上げましょう。足の悪い人と動物たちに義足を作る仕事を。」そう言った男の申し出を、曲芸師は受けた。片足なく生まれたコロのために作ったような、体が不自由であっても誰もが自由に動ける義足を作るのだ。そしていつかあの器械屋の技を超えてみせよう。

一人と一匹は友の待つ家に向かって歩き出す。

コロは今でも花を摘むのが上手だ。コロには大好きな家族が二人いて、出かけるときはいつでもついて行きたがったし、一緒に行けないときは悲しげに啼く。二人はコロをいっぱい抱きしめてくれたし、いたずらをすれば厳しく叱りもした。

これは、5月になると花でいっぱいになる街のポピーの花の咲く家に咲く可愛いポピーたちに語り継がれる、コロの家族の話なのだ。

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