(徒然)推測は理解か

私は政治について論じるほどに、政治に詳しいわけではないので、詳細や情報提供ではなく、得られた情報から推測したことを、一応背景を理解した、とみなしたと仮定したうえでの覚書のようなものを残します。推測は理解ではありません。読んでくださる方がいれば、そのことにも留意しつつ、読んでいただければと思います。

ニュースにそれなりに関心をもって生きているとはいえ、政治に疎かったから、2月24日から、ウクライナへのロシアの圧倒的な武力行使について、なぜだろう、と前後関係についてぐるぐる考えていました。しかし、新聞やウェブニュース、それからヨーロッパの経済や政治や歴史を研究をしている教授の先生たちの話などを聞いて、気でも違ったのかという気持ちもあったこの戦争が、非常に冷徹で冷静な政治的判断のもとに下されたことを、ひとまず私なりに理解することができました。その理解が深いとは思いません。ただともかく事実関係の羅列と解説を学び、それをもとに何となく推測とも理解とも言えないなりに整理ができた、という感じです。

そして、この理解と推測に基づいて世界情勢を見たときに、結局戦争は政治の産物なのだ、と感じています。ウクライナとロシアとEUとアメリカの政治的駆け引きの結果、この戦争は起きていて、人々は政治的駆け引きの結果、苦しみ死んでいる。グローバル化された世界情勢において、日本をもちろん無関係ということはできません。どうやら世界の多くの国がこの戦争を止めるために大きな役割を果たせないのではないかと感じました。彼らのとっている対抗手段がそれを表しているようにも見えます。多くが、そして予想通りではなかったにしても、いずれにしてもロシアの理論に基づいた想定範囲内にすぎないもののような気がするのです。

結局は世界が、政治という媒体を通して、この戦争の責任の一端を担ってしまっている。今ウクライナの情勢に手を入れようとしているNATOや米国、中国やEUの反応や動きは、第3次世界大戦を引き起こせない、というだけでなく、(もちろんロシアが挙げた戦争の理由に対する解決策でもあるとはいえ)やりすぎた駆け引きを正そうとするかのようなものもあります。戦争のさなかに行われたNATO加盟断念を表明したウクライナから、ロシアにたいして過剰反応であることを理解してほしいという、すがるような願いを感じた気がしました。

こうした情報を得るまで私は、相手が狂人でないなら話し合いの余地があるかもと、思っていたのですが、人倫に反していることを承知で冷静な理論をもって、そしてその状況下における各国の反応をある程度予測してロシアが攻撃を仕掛けているということになると、これを止めることは、非常に困難であるのかもしれません。なぜ、というぐるぐるはなくなったのですが、代わりになんだか心にシンとした氷が巣くう思いです。

この戦争の姿から、多くのことが明らかになった気がします。

ここから先は推測に基づかず、実際に最近の日本のニュースを見て私が個人的に思うことです。

おそらく今回の戦争は日本で多くの情報操作が行われるようなものではないのだろうと思われ、ロシアとウクライナに関して、それなりに多くのニュースが入ってきているように思います。つまり私たちは、政治によって情報が操作されていることを目の当たりにできています。行った政治的駆け引きが失敗したことを隠している政治家の姿を見ています。そして基本的人権が採択された社会で、言論の自由が奪われ、平和に暮らしていた多くの人がその生活を理不尽に奪われ、ささやかな願いさえ踏みにじられる姿を見ています。

日本でも戦争は起きないとは言えないし、日本で戦争が起きたら政治家がすることはやはり似たようなものでしょう。踏みにじられるのは市政の人々で、失われるのは昨日まで隣で笑っていた人でしょう。

自民党が掲げ続ける憲法改正について、広島出身の岸田首相が演説で触れていました。犯罪者の家族に嫌がらせをしたり、ヘイトスピーチをしたり、海外に住むロシア人を偉そうに非難する自分を無辜と信じる人々をみて、コロナでも攻撃という反応ばかりする世界に、暗澹たる思いです。

武器を持って戦った日が、その国における平和の最後の日です。政治に無関心だった人にとっては、いっそビックリな終わり方です。ただ、その国が民主主義国家であれば、無関心だったことの結果を生きている間に渡されてしまったともいえるのです。

逆にジンとしたこともあります。ドイツの一般家庭の人がウクライナから逃げてきた人たちが到着する予定の駅まで行って、ホームステイを提供するなど草の根の活動をしているそうです。きっと政治的サポートよりも素早いサポートでしょう。支えあうことは様々なやり方から行うことができる。メルケル元首相のときからドイツが、そしてドイツ国民が世界の人に示した姿には、もっとも多く学ぶものがあるように思います。ドイツだけでなく、ヨーロッパにおける一般の人々が示した反応は、心強いものでした。

すべての人類が同じ人間であることは、すべての人類が、国が違っても宗教が違っても文化が違っても、家族や友達、そしてわたしたち自身であることです。私たちは、歴史を学びながら、学校で授業を受けながら、ニュースを見ながら、そのことを一つ一つ学んでいけているかな、と不安に感じます。

願いは平和な生活だということ、攻撃は何も生まない、ということ、ただ、人には矜持があるということ、だけれどもどこかが誰かが妥協点を見つけないと決して戦争は終わらないだろうということ。政治的駆け引きの失敗で奪われる日常は、天災で奪われる日常よりも怒りに満ちたものです。ただ、間違えたくないのは政治的駆け引きの結果は個人を反映するものではないということです。

ウクライナと世界とロシアがどこが妥協するのか、平和という最終目的にただりつくためにどのような働きかけが必要なのか、考える必要があると思っています。政治的に力がなくても、私たちがそのことを考えることは、平和を支える一つの力だと思います。

正しい情報は平和を支えるもう一つの力です。日本やアメリカのメディアだけでなく、世界のメディアと繋がることができる世界です。こうした海外メディアには他国で流れたニュースを翻訳してそのいるところも多いです。和訳や英訳されたものがどこまで現地情報を反映するかということにも留意することは必要ですし、情報選択は避けられませんが、少なくとも日本における海外ニュースの取り上げ方と比較することはできます。

フランス通信社サイト(日本語に翻訳されています):https://www.afpbb.com/list/latest?cx_part=nav

中東のニュースサイト(英語サイト。中東ですが、英国、日本などの支援のもと開局):https://www.aljazeera.com/

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