ズール族のビーズ

ズール族は日本ではかなり知られるアフリカの部族の一つです。

南アフリカを訪れた際は、彼らの住む土と草でできた家や、観光産業としてのダンス鑑賞などに触れることがありました。大地に寝づいていたそれこそ持続的だったはずの文化が、持続的でない現代社会と折り合いをつけていく世界を、そして貧しさと感じていなかったことを貧しさと感じるようになりあがく人々の姿を、あるいは豊かだった世界がはぎとられ、失われてしまった多くのものから新しい生活を成り立たせようとする人たちの姿を、少し悲しく感じたものです。けれどもその気持ちは痛いほどわかるものでもあるのです。よりよい明日を望む私たちと同じ思い、より、きっともっと強い思い。

彼らの装飾品にビーズ細工があります。

黄色いあるいは赤茶けた大地も多いアフリカですが、緑が大地、白は愛、赤は情熱、紅白は未婚者が身に着けるもので黄色の飾りは既婚者であることを意味する。

色は生き生きと、世界と調和する意味を有しています。人はどのような文化圏に生きても世界に持つイメージが似ていると思います。例えば、大地が母なるものであることを考えると、黄色が既婚者というのも興味深く、東洋の陰陽五行説とも比べてしまします。各国の神話にも類似点は多く、寒い国でも、暑い国でも、水の多い国でも、水の少ない国でも、人々は世界に同じイメージを持っている。同じ世界を生きている。

人は生まれる国を選べないというけれど、人間が自分で悲劇的な行為に走らない限り、本当はどこに生まれても世界から受ける愛は変わらないのかもしれません。誰か以上になることも、何か以下になることもない、人にも動物にも草にもプランクトンにも与えられた世界からの愛情。世界といえば自然界しかなかった期間の方が実際にはずっと長いですもの。

茂みに潜むライオンに注意が必要でも、木陰で憩うインパラの姿に感じるものは、雄大で、けれども優しく穏やかな大地の愛です。

地球はビックバンによって生じたのかもしれない。宇宙は膨張してやがて爆発するのかもしれない。すべては消えていくのかもしれない。

けれど今、生きているこの時間は、宇宙が再現を試みても再現できない、命の営みの一つ一つは確実にその一代限りのあなただけの、「私」だけのもの。人類は考える葦かもしれませんが、思考は人類のみに与えられたものではありません。それはたぶんどの生物も「私」が考える力を失った時はその個体が死ぬ時だから。

我々がいつか大地と一体になるとき、真の平安が訪れるならば、生命体の中で一番魂の格が低いのは現代人かしら、とふと思って、でもそれから、その格付けという発想自体が愚かな気がして自身を笑わずにはいられませんでした。

「私」に与えられた唯一の持ち物が、「私」で、これを守り大切にすることは、ほかの人の命(「私」)を大切にする姿勢があって初めて可能で、この地球が一つの幸せな創造としてこの世にあり続けた秘訣の一つが、命がつながっていることそのものなんだろうなぁ、と初夏の午後のまどろみに思うのでした。

いつかは全体の中の一つになる。今は私という個を得ている。生とは不思議なものです。

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