(お話)トカゲとアゲハの幼虫

私は白い箱の中で暮らしている。体が不自由なのだ。

小さいころからなぜか腕を失う幻影をよく見ていた。そして、ある朝目覚めたら、本当に腕がなかった。

ただ、そう驚きも気落ちもしなかった。腕がないのはそれなりに不自由だったが、ないものはないのだから仕方がない。それに、夢や幻影では、引っ張られてちぎれたり、刃で落とされたりと、腕を失うのはとても痛そうだったので、目が覚めたらなかった、という事実には唖然としながらも少しだけほっとした。

個人的には交通事故にでもあって、ちぎれて失うという未来が待っているのではないかと、根拠のないことだと自分を笑いながらも、漠然と、それは漠然と不安に思っていたので。

腕、正確には肘から先だが、がなくなって、喪失感に襲われてしばらく苦しんだあとは、まぁまぁ普通に暮らしていると思う。有難いことに仕事はネットで在宅でこなせ、時には幻触があったりしたけれど、事故で失った人とは違って、腕はただないだけだったので、やり方さえ学べば困ることはそうそうなかった。

息を吐いて、息を吸って、ネットで注文した食品を適当につまんで、時に料理したり掃除たり、そして、また息を吸って、息を吐く。

窓を開ければ風が入ってきたし、鳥が飛んでいるのも見えた。散歩に行けば、土や木々の香り、川の轟を聞くことができた。もっと歩けば、アスファルトの香り、ごみのにおい、食べ物のにおい、行きかう人々の香水や汗のにおい。電車の中の薬品めいたにおいや、ビルの中の誇りとこざっぱりした光。親子連れの子供が不思議そうに私の腕を見る。にっこり笑いかけると、にっこり笑い返してくれる。大人はさっと目をそらすけれど、困って声をかけると、多くの人が笑顔で対応してくれる。

私の世界は静かだったけれど、つらさはなかった。風が吹けば嬉しいと感じ、草いきれを胸いっぱいに吸い込んで、ひどく愉快な気分になったりした。

空を見れば、そこに天があると思った。

人とも結構話した。全身がブリキの人に会ったこともある。ブリキなのだからロボットみたいなはずなのに、金属でできたその顔には柔らかな表情があって、有機物でないのに、決して無機質な人ではなく、そのことが私の目を引いた。住み慣れた街で、でも電車の乗り換えに困っていた私に声をかけてくれた。明るくて優しい、静かな声の人だった。靴を履いているのでわからなかったけれど、片足だけは血が通っているらしい。

血の通う足とブリキの足で、不自然さもなく歩きながら、彼はきれいなお辞儀をして立ち去った。

そういう出来事も私の心を温かくした。

ある日散歩していて、トカゲを見つけた。まだ両腕のあった小さなころから、私はトカゲが好きだった。追いかけまわして、しっぽ切りをされて泣いたこともある。「あれは再生するのよ」と慰めてもらった。けがをしたときかさぶたができるまでは痛むように、治るまでは痛いのだろうと思うけれど、生き物に自己修復力があることは素晴らしいと思った。

その日、トカゲは暑い日に木陰となった道の真ん中にいて動かない。私はしゃがみこんでじっと見た。きれいな瞳をしている。こっちを見ているようなのにじっと動かない。すらりと緑色のその美しい姿を見ていると、ふとトカゲの顔の下のあたりで、彼の心臓がバクバクと大きく動いているのが見えた。薄い皮膚はトクトク、というよりはバクバクと、せわしなく、でもリズミカルに上下する。

…生きている。

死んでいるかもと思ってみていたわけではないのに、突然にその生をまぶしく思う鮮やかな気持ちが沸いた。力強い鼓動だった。小さな生き物でありながら私よりずっと力強かった。うれしくなってカメラを出して、レンズを近づけたら、さすがにそれは嫌だったのか、さっさとどこかへ行ってしまった。

苦笑して立ち上がった。黒い物体が迫ってくるのは嫌だったらしい。そりゃそうか。

そして10歩くらい歩いたら、今度は道の真ん中で大きな芋虫がじっと動かない。

。。。生き物が道の真ん中で、じっと動かない日なのか。

全身が黒くて、オレンジの斑点があって、触角が出たり入ったり薄緑だ。すごく大きい。終齢虫だ。あとちょっと葉っぱを食べたらすぐにでもさなぎになるだろう。蝶の一生は短い。芋虫の寿命はそれよりか少し長いが、でもやっぱり短い。せっかくここまで大きくなったのに、こんなところにいたら人に踏まれてしまう。

それで、草むらに動かさないと、と思って、近くの葉っぱをちぎって、茎に芋虫をひっかけて運んでみようとするけれど、集団では強くとも一本では可憐な雑草には芋虫は大きすぎて荷が勝ちすぎるようだ。落ちる。。

何度か試みて、ふと気が付いた。芋虫には毛がないのだから、素手でつかんでも爛れない。さらに言えば、おそらくアゲハ蝶の一種だと思うので、これはそこの樹木から落ちたに違いない。

私は片手はないが片手はあるのだ。さっさとつまんで掌に載せた。

確かな重みがあった。

芋虫はなめらかでやわらかく、しっとりしていた。

。。。あぁ。これは命の重さだ。立ち上がった目の前にあった木の葉っぱに芋虫を乗せた。じっと動かない重い芋虫だったのに、葉をしならせもせず、すいすいと歩き出した。

ふと足元を見たら、今度毛むくじゃらの小さな毛虫が、こっちはひょこひょこ急ぎ足で移動中だ。

彼はどこか向かう場所があるようで安心だ。そう、生き物は動いているなら大丈夫だろう。

それから少し考えた。

私は白い箱の中で暮らしている。冷蔵庫があって、エアコンがあって、必要なものは一通り持っていて、ちゃんと息をして吐いて、体に栄養を与え、し好品をたしなみ散歩もする。人と話す。時には家族から電話があったり友達から連絡が来る。一緒に遊びに行く。雨を感じて、風を受けて、鳥や虫や人、他者の生活の片りんを五感で感じている。

ただ、今日、とても久しぶりに、自分以外の生き物に触れたと思った。

芋虫の重さが触覚的に重かったこと。トカゲの鼓動が視覚と、そして聴覚に響いたこと。

生き物の、命の象徴は何だろう。血潮やぬくもりではない。芋虫もトカゲも変温動物だ。鼓動を感じない植物や微生物。気孔が開いて閉じたり、ほかの植物を腐らせてにおいを発生させるなど、どんな生命も、それぞれの存在感はあるが、それは命を象徴はしていないような気がする。

では、予期せぬ動きや、設定されない躍動に、私は命を感じたのだろうか。私の思考から切り離された、未知に満ちた生きた他者。

芋虫の動きも、植物の生長も、微生物の増殖も、トカゲの逃亡も、水の中のボウフラやプランクトンの感覚も、予期せぬ動きや設定されない躍動がある。

その予期せぬ躍動が、私の心を揺さぶる。

私は適当にやりくりして、何にも挑まず、安全で軟弱な人生を守っている。予期できないものは危険なので避けている。

でも。

でも私も、等しく「命」だもの。。。トカゲのしっぽが再生されるように私の腕もいつか再生されるかもしれない。

シンとした気持ちになって、それから、天を仰いだ。

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