(雑文)礼法とボディランゲージ

礼、というものについて。つまり礼儀作法というものについて考察することがありました。

中国古典音楽の祖は論語、ということを学んだのがうれしくて、論語を読んでいます。まだ途中です。しかし、音楽は今回はそっと横に置いておいて、礼についていまさらながらに思ったことがありました。古いものを読んで、現代社会と照らして何か通じるものを感じたために、これをうれしく思い、頓珍漢ながら再び覚書をしておきたくなりました。

礼というと、根底には尊敬の念があり、それを体現する形式として作法があります。つまり礼儀作法。英語ではmanner。

日本は今は主に家庭で礼儀作法を教えますが、英語圏では、こちらのお作法はgood behaviorとなるので、mannerとは違います。

good behaviorとは何か、考えてみると、これは社会でうまくやっていくため和を尊ぶ協力的振る舞いのことであって、もちろんmannerがいいに越したことはないけれど、mannerとgood behaviorは違います。mannerというのはやはり、作法であり、目上の方といる際に必要になるものでしょう。

この礼儀作法なんですけど、論語を読んでいてしみじみと、ボディランゲージなんだなぁ、と再認識したのです。役割として、言葉の通じない人が気持ちを通じ合わせるために行う身振り手振り、この役割を論語を読んでかなり如実に再認識した、という経験を面白く感じて、書き留めてみようと思いました。しかしまだ読書を終えていないので中間感想文ではありますが。

論語では、礼を教えてるのは、師(先生)なのですけれど、これは礼が、目上の方と接するときに必要になるもの、つまり君子や君子に使える人たちのふるまい基準になるからです。礼儀作法と行儀は違いますが、日本ではさほど大きな区別がありません。これは父母を、うちでも外でも目上のものとみなす儒教的文化によるのだと推測します(そして現在は家庭の役割としての教育が、これを教えることと期待されているのはないかと愚測します)。礼は真心がこもっていなければなりなりませんが、人の尊敬や真心の念の表し方というのは、身分と言った社会階層、個人の背景によって異なるのです。2500年の時があっても、なるほど、と思える、ごく当たり前に人の心の機微に沿いながら、「このようにすればあなたの気持ちは伝わる」という普遍的なふるまいを礼儀作法、すなわち礼として掲げていて、人が目指すべき在り方、心根については仁や知などの概念がちゃんとあり、同じものではないのだ、というのは面白いと思いませんか。

せっかく言葉をもって生まれた私たちですが、言葉をうまく使いこなせずに、気持ちを伝え損ねたり、考えをまとめ損ねたりするのは今も昔も変わりないようで、ただ君主と言った立場の人は、ときにその不器用さが不必要な不和を招いてしまうことがある(そしてその不和のために無辜の民が死んでしまう)、そういう事態を少しでも緩和するための手段なのです。

これがありがたいことに現代社会にまで伝わって、もっとありがたいことに多くの人が教育を受けられる世の中になって、家庭や学校で礼儀作法を伝えることができるようになった。小さいころに、「お行儀良くしなさい」と言われなかった人は、私たち世代にはいないと思うのです。小さいころ、なぜ言いつけられたふるまいを行うことが行儀が良い、ということなのかわからない状態で、それを強要されて反発心を持ったことがない人はいるのかしら。私は持ちました。実際には礼にはかなり合理的、論理的な理由がありますが、それを一つ一つ説明する人は多くはありません。

でも年を取って、一人の人がいればそこに一つの文化がある、つまり何十億通りもの常識があることを、途方もないことのように感じるくらい世界が広がったころに、この礼儀作法というのが活きてきたことがあり、論語読んで思い当たる経験があったわけです。

現代社会では、そもそも礼儀作法を知らない人もいるので、自身が丁寧に接しても意味がないのでは、と感じることもあるかもしれませんが、この作法を守っているほうが、やはり良いのです。気持ちの上で、尊敬している人にもどうしても反感や批判の心を持っているときはある。これを否定するわけでなく、そうした気持ちを抱えていても、あなたのことを尊敬していますよ、と伝えることができ、さらに自らを律して礼を尽くすということで、和を保てる、という知恵の形でもあるからです。あなたの持つ気持ちが相手にいつか伝わる、そのかなり普遍的な文化圏共通のボディランゲージだからです。礼はそういう防御服みたいな役割も果たしてくれているように感じます。

父母と意見が異なる時は、心込めて一度はきちんと説得しなさい、それでも理解を得られないときは、間違っていると感じても父母の言葉を否定せず受け入れなさい。黙って礼を尽くし、そのうえで自身の方向性を決めていくように、と説くのが心に残りました。そういうこともちゃんとあるんですよ、言ってくれるのがいいですね。

礼というのは尊敬や真心を表す手段なので、根底にはその気持ちがあるのですが、その気持ちを持っていることを表す’戦略的’な方法でもあるわけです。尊敬の気持ちや愛情を上手に伝えることができないときは、礼儀作法という道しるべに従い、こういう型をもって接すればいいんだよ、というものがあるのは、なんだかありがたいことじゃないですか。

まだまだ消化できていませんし、言い古されたことではありますが、政治や君子の話をしながら、個人の在り方について、いろいろな知恵が詰まっているように感じ、これが2500年前に書かれた言葉であることに、人間の普遍性を見た気がして、不思議な気持ちになります。

なぜならそういう論語の中にも、多くの歴史上の偉人の言葉が出てくるので、2500年前も現代も全く同じ社会が眼前に広がっているような錯覚を覚えるのです。

私たち、2500年もの時をかけて、あまり成長していないみたい。

歴史から、偉人から、上手に学ぶということはどうすればなせるのでしょう。

けれど私のようなものが、書物を手にし、書物から学べるところが、過去からの一つの成長の形でしょうか。

オゾン層、塩化ビニル、温室効果ガス、マイクロプラスチック、有機フッ素化合物、水質汚染、宇宙デブリス、原子力発電所、電磁波。。。ここ200年ほどで発展した技術は、人口増加との相乗作用で、負の遺産ばかりになっているような気がする、と、飢えることなく食べ物ときれいな水が手に入り、書物を手にすることができ、冬でも凍えることがない家の中でこうしてインターネットをしながら悩むのは、自身に矛盾を感じない人はいないでしょう。自己矛盾を辛く思うのです。

けれど、教育を受けられる社会に感謝しています。弱者が必ず救われるわけではないけれど、それでも見捨てないように法整備を進めている社会に感謝しています。遠くの地の問題を知り、世界中の人々が同じ問題を解決しようと手を携えて歩き出す可能性を持つ社会であることに感謝しています。

教育を受けず、礼儀作法を素で実践するだけの境地には、君子でさえもなかなか至らないのです。ボディランゲージである礼を、世界中の人が実践したら、確かに世界は不和がなく、よりよい世界になるように感じました。そのように感じたことを、実は意外に思いました。だから学ぶのね、と小さいころ受けた教育の答えが、古典の中にあったことを愉快に思ったのでした。

礼を実践している人の所作を美しいと思いました。

そして美しい所作を身に着けたいと願ったけれど、その本性について考えたことはありませんでした。

今書いていること、感じていることは無常のものではあるし、その道を究めている人にはお叱りを受けるような考察かもしれません。けれど、論語を読んで、生活の中に粛々と息づく文化の美を見たように思いました。そのことが、本当に晴れ晴れとした心地をもたらしてくれています。

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