(雑文)ノーベル平和賞

今年ほど、ノーベル平和賞は、世界が平和ではないからある賞なのだな、ということを実感したことはないかもしれません。

本受賞組織が関係3国からそれぞれに選ばれていることに、今年の選考委員会の方々の平和を希求する意気込みと思いやりが表れているように感じています。ちょうど「同志少女よ敵を撃て」を読んでいたので、余計にそう感じるのでしょう。

私が知る限り、戦争するのは霊長類だけなのですが、例えばいじめが報告されるのも、一般に「かしこい」と評される生き物(人を含む)ばかりな気がします。「進化」と言葉には大変前向きな響きがありますが、この漢字には時折限りない違和感があるのはこのためです。

哺乳類より後に進化した鳥類が、必ずしも大きな脳を有するわけではないことに、補正といいますか、それこの生命の進化の叡智を見る気がするのです。(とはいえ、鳥類にもいじめは現象として報告されていますが)

2年前に見た映画に「あなたはなぜクリエイティブなのですか?」という質問の答えを集めたばかりのものがあるのですが、この中でも何人もの人が、創造性と文明と文化と平和を語っています。

有史以来、その中で安全に生きられるよう社会は形成されて、社会が高度に発達したものが国家であるはずなので、国家によってその中で生きている人が死ぬことがあるのなら、その国家は破綻していると思います。けれど、形成された社会に縛られてしまうと、国家は国民に一つしかない命を差し出すように要請することを疑問に思わない。戸籍登録のない人は、そこにいても「存在しない」人として扱われ、どこかの国に属している土地を耕すことも、旅をすることも、働くこともできなくなった。

いつだったか、温暖化がどんどん進んで、海水と地表の温度がある閾値に達すると、反作用が生じて氷河期が誘導される、という記事を読みました。温暖化は深刻な課題で、たくさんの生物を死に追いやり経済的打撃も大きいかもしれませんが、氷河期が来た場合は、その比ではなく、微生物と深海生物以外はおそらく死に絶えると考えられています。

美しいものも醜いものも氷に閉じ込められて光を失い、やがてまた気の遠くなるような時を経て、私たちの全く理解の及ばない新しい世界が作られていくのでしょう。今大切に感じているものはすべて失われていくのでしょう。

地球の自浄作用ともいえる現象。

そういう圧倒的な力の前であれば、滅びの寸前に人類はただお互いを慈しんでいるだけでしょうか。

それともそういう環境の中でも、地球のどこかに争いがあるのでしょうか。

平和な日常の中であっても、人は、友人と呼んだ他者でさえも、思いがけずないがしろにしてしまう生き物だから、はい、とも、いいえ、とも言えません。言えない自分を不甲斐なく思います。

そして、他者のために祈ること、そしてそれができる心持を保てることがいかに恵まれたことであるのか、胸に刻んでおかねばならないという思いを改たにします。

「目的地を決めるよりも、希望を持って旅を続けていきたい」(映画の中のホーキンス博士の言葉)。

希望を失えば、描き出す未来も、踏み出す勇気も、引き返す賢さも、失ってしまう。

人の内部には思いやりも嗜虐性も同時に存在する。「思い」は脳神経で生じる化学反応に過ぎないのかもしれない。化学反応は制御できない。けれど脳神経は、体に宿る命が生き続けていけるように変化することが報告されている。

心や命は数字や理論ではまだまだ図り切れず、だから人類には常に希望があり、何事も諦める必要はない。

いつか自分は異常だと絶望する日がきたとしても、自分と自分の愛する人たちに対しては誠実であったと胸張れる指針を、すべての人が見つけられますように。

…できれば誰か守ってくれる人がいるうちに、誰か守りたい人がいるうちに。

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