呼び声
悪い夢という言葉、悪夢はあるのに、悲しい夢;悲夢や、哀夢、あるいは良夢という二字熟語さえないのは不思議だと思う。
ふと思う。
悲しい夢を見たからだ。
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「お母さん」「お父さん」私を呼ぶ声。
「みっちゃん」「さっちゃん」「ピコリン」「りょうっち」私が友達を呼ぶときに使う。
あるいはシンプルに名前で。
呼ばれる方だって、うるさい時もあるだろう、煩わしい時もあるだろう、呼び声。
でも、と思う。
でも呼び声は、応えてくれる人がいるから発せられる。
頻度は高くなくなることはあるかもしれない、会える日が減るときもあるだろう。
けれど繰り返し繰り返し使われる、ひどくありふれた。。。そういう呼び声。
怒った声でも、哀しい声でも、辛い声でも、親しみを込めたあなたの呼び名。愛なんて込めていない、と自分で思うくらい冷めた気持ちの時もあっても、呼び名そのものが、すでに私とあなただけの特別。
私の声で、あなたを呼ぶから、あなたは振り返ってくれるから。
家族の呼び名は役割の名称に過ぎないと思う時もある。でもそれは不思議な縁で結ばれた名称ではないだろうか。家族は身近で親しみのある人で、私はあなたを呼べることがうれしい。呼べば振り返ると期待できる距離にあなたいることがうれしい。
全然会えない時間が過ぎても、いつかは名を呼び合えると知っているだけで違う。
風花が舞う。青い空に、ひらひらと、降ってくるのに昇っているように。
青い青い空間の中で、
さっきまでそこにいた人の姿が消えて、呼び声が空気に迷う夢を見た。
反響する音もない虚空
呼び人がいない、ということを学んだ私は,その呼び名を声に乗せなくなる。一言を声を出すのさえ虚しい。そんな夢。
逝ってしまったらもう会えない。ちゃんと知っている。何十年も会えないままで、そして知らない間にお互いの人生が終わっていることだってあるのだから、いなくなったからと言ってその名が消えるわけではではない。
それも知っている。
名はやはり大事なままだ。その人を表す呼び名も変わらず大事なままだ。
けれど、どんなに呼んでも、返事はなく、あなたの姿を見ることもない。
途絶えた呼び声に、その何でもない呼びかけにどれだけの愛を自分が込めていたのか、絶望するように悟ってしまう夢だった。
それは悲しかった。悲しい夢だった。
消えてしまわないでほしい、逝ってしまわないでほしい。
人が時が止まることを望むのはそういう時ではないだろうか。
大事に思う人の呼び名を、いつまでもいつまでも自分の声に乗せていられたらどんなにいいだろう。
その慕わしさと信頼がいつまでもいつまでも変わらなければどんなに良いだろう。
あなたがいってしまったら、私は今と同じように慕わしさと信頼に満ちた気持ちで、あなたの呼び名を声に乗せることができるだろうか。
反響する音もない虚空
それなのに、空間にただ反響する自分の声が耳にこだまする
空耳だ、とわかっていても、その時わたしは呼び声を音に乗せることができなかった。
悲しい夢だった。
